大黒“摩紀”から大黒“摩季”へーー

 この時のことを大黒はよく覚えていた。

「あの時、実はソニーさんとかビクターさんも受かっていたんです。ビーイングが一番小さい会社だったんだけど、長戸さんに会ったら、すごくいい目をしてたんですね。そして、ものすごく正直だった。その時の私には超面白そうに見えたんですよね」

 ほかの会社はすぐにでもデビューさせるような言葉をくれたが、大黒は違和感を感じていたという。

「札幌では天才気分でいたけど、かと言って今すぐデビューできるとも思っていなかった。だから一番合点がいったんですね。もっと曲を作りたかったし、いろいろ吸収したかったので」

 そこから、大黒の曲作りとバックコーラスの日々が始まったのだ。

「当時の自宅は、池尻大橋の6畳のアパート。部屋中が機材だらけで横になるスペースもなく、押し入れに足を突っ込んで寝てました(笑)」

 曲作りの一方で、ビーイング所属アーティストのバックコーラスを務める。

 当時彼女の担当マネージャーを務めた高野は、こんな記憶を話してくれた。

「おそらく1年目だけでも100曲くらい作ってたんじゃないかな。でも、なかなかデビューのきっかけがなかった」

 そんな下積み時代、陽の目を見ない日々に飽き飽きした大黒は「勉強してくる」と言い残し渡米した。

怒涛のごとく駆け抜けた90年代。「大黒摩季は存在しない」という都市伝説が流布していたころに訪れたハワイでの写真
怒涛のごとく駆け抜けた90年代。「大黒摩季は存在しない」という都市伝説が流布していたころに訪れたハワイでの写真
【写真】「自分の限界が見えた」と語る大黒摩季さん

 同じころ、たまたまSILKというアーティストが歌った大黒の曲『STOP MOTION』(テープ審査に送った中の1曲だった)に長戸が注目し、急遽大黒のデビューが本格化。彼女は日本に呼び戻されたのだ。

 1992年5月、大黒摩季は『STOP MOTION』で歌手デビュー。続いて9月に出た『DA・KA・RA』がCMのタイアップがつき注目を集め、初のミリオンセラー(100万超)を記録。その年の日本レコード大賞新人賞を受賞したのだ。

それからですよ。3か月に1枚出していったのは。当時のレコーディングはテープでしたから作業が大変だった。やってもやっても仕事が終わらない日々が、1999年まで怒涛のように続いたんです」

“婦人科系の病気のバリューセット”と語る、身体の異変

 2001年、「外の世界を見てみたい」とビーイングを飛び出した大黒は、音楽活動のさなか、2003年11月、友人の紹介で知り合った会社員の男性と入籍する。

 2人は子どもが授かることを強く望んでいた。だが……。

 彼女は、東京に出てきてしばらくたった20代のころから、生理不順をはじめとする体の異変を感じていた。

「私の場合、婦人科系の病気のバリューセットみたいでした」と大黒は妙な例えかたをしてみせた。

「卵巣嚢腫があって、子宮筋腫、子宮の内部にポコっておできみたいなのができて、子宮内膜に変異の物質ができる子宮腺筋腫、卵巣の周りに内膜症、その上、内膜も卵巣内もボコボコしてる、ハンバーガーにナゲットまでついてるみたいな状態(笑)」