傍からみれば変わった人だが、中村さんの強烈な魅力に惹かれていく。

海岸に呼び出されて、“この海岸の砂を食べたら世界一になれるなら食べられるか、俺なら簡単だ”と言ってむしゃむしゃ食べ始めたこともありました。当時、指針を失っていた私は、この監督についていこうと覚悟を決められました。本当に世界一になれるかもしれないから、絶対ノーは言わずに従ってみようと

二人三脚でやってきた恩師が急逝

 中村さんの指導のもと、ブランクを取り戻した瀬古は、在学中の'78年に福岡国際マラソンで優勝。箱根駅伝でも“花の2区”を走り、3、4年次には区間新記録を叩き出すなど、快進撃を続けた。大学を卒業した'80年にはモスクワ五輪の代表選手に選ばれていたものの、ボイコットのため初出場は果たせず。しかし、めげることなくその後も数々の国際大会で優勝を飾り、世界に名を轟かせた。

 そして、'84年には満を持してロサンゼルス五輪へと臨むこととなる。

8年ぶりの五輪でしたから、周りからの期待はすごく感じました。“瀬古さんなら絶対勝つ”“金メダル1個は固い”なんて言われてね、プレッシャーは大きかったです

 それまで以上に練習に励んだが、本番直前には心身共にボロボロになっていたという。その結果、ロス五輪では14位という成績に終わった。

'86年、シカゴマラソンで自己ベストを更新した瀬古利彦(本人提供写真)
'86年、シカゴマラソンで自己ベストを更新した瀬古利彦(本人提供写真)
【写真】'21年に他界した長男・昴さんとのツーショット

「当時はもう、身体的にもピークを越えていて、気づいたら無理が利かなくなっていました。マラソンが楽しくなくなってきて、何のために走っているのかわからなかったですね」

 環境を変えようと、帰国後にはお見合いをして今の妻に出会った。しかし、ロス五輪翌年の'85年に中村さんが趣味の川釣り中に急逝してしまう。

「文字どおり、二人三脚でやってきたので喪失感はそうとうに大きかった。ただ、結婚したことで、今度は家族のために走るというモチベーションが生まれました。振り返ると、中村監督は私がもうひと踏ん張りできるように、背中を押してくれたんだと思います