ビンタされてなお貫いた女優への道

 演劇によって自分を表現したいと考えた五大さんは、女優への思いを強くする。

 しかしそこに立ちはだかったのが父親だった。高3の秋、「女優になりたい」と打ち明けると、だめだと猛反対。それでも動じないでいると、「歯を食いしばれ」と言われ、平手が飛んできた。父親から手を上げられたのは初めてだった。ひるまず「女優をやります」「お父さんの考えで私の人生を曲げるわけにはいかない」と言うと、髪を引っ張り洗濯場で頭から水をかけられた。翌朝、ほっぺたが腫れ上がり「姉の顔がお岩さんみたいになって怖かった」と、障子の陰からそれを見ていた弟・洋志さんは震えた。

 このままでは志望する桐朋学園大学短期大学部(現・桐朋学園芸術短大)演劇専攻には進めない。親の承諾が必要だった。そこで父親の説得に乗り出したのが高校の担任、池田征矢雄先生。説得が功を奏して、桐朋学園に合格することができた。

 そこまでして入学した桐朋学園だったが、

「横浜から出たことのなかった女子校育ちの私には、友達も2、3人しかできず、不器用だったのでグループの輪になかなか入れませんでした」

 足は大学ではなく、劇団に向かうことが多くなる。演出家・竹内敏晴さんが作った劇団に入団するが、思うようにいかなかった。

 演劇集団『変身』では空中回転を練習中に失敗し、床に叩きつけられ頸椎損傷。医師から「これから一生、激しい運動はせず、縫い物などをして静かに暮らして」と言われ、目の前が真っ暗に。

 静岡県で療養していた五大さんは、ふと出かけた石廊崎で“飛び込んだらどうなるだろう”という思いがよぎる。そのとき、石が海に落ちた。

「下を見ると、波しぶきひとつ立たない。もし私がここから飛び降りたとしても、“ちょぽん”と泡が立つだけだ。誰も気づかない。そう思ったんです」

看板女優の演技を見て「ここが私の生きる道だ」

 半年の療養を経て次第に快方に向かっていった。そして最初に見た舞台が『早稲田小劇場』の芝居だった。看板女優・白石加代子さんのパワフルな演技にうちのめされ、「ここが私の生きる道だ」と直感。入団するのだが、次の年、「1年間どこかで修業してこい」と主宰者の鈴木忠志さんに言われ、放り出された。

 修業先は新国劇にした。新聞で団員募集広告を見つけたのだ。幼いころ、子守りのおばあさんと行った綱島温泉の舞台で、新国劇の『一本刀土俵入り』や『瞼の母』を見た印象が強かった。「女性はいりません」と言われるも、粘りに粘って「とりあえず採用」となった。

 付き人、掃除、洗濯、なんでもやり、主役の俳優が不在で代役を探していると、臆せず手を挙げ代役を務めた。

 そのころに自ら付けたのが「五大路子」という芸名である。五大とは仏教で、宇宙を構成する5つの要素「地・水・火・空・風」。名は当初「みち」だったが、京都の幸神社にお参りした際、宮司に姓名判断だと「路子」がよいと言われ改名した。'76年のことだ。

 すると'77年、ビッグチャンスがめぐってきた。NHK朝ドラ『いちばん星』のヒロインの代役に決まったのである。

 新国劇からのすすめで『いちばん星』のオーディションを受けていたが、最終審査で次点に。しかし高瀬春奈さんが体調を崩し、放送途中の6月に交代となったのだ。

 このドラマは、日本の流行歌手第1号となった佐藤千夜子さんの半生を描いた作品だ。

「セリフを覚えるのが大変でした。実家から電車でスタジオに通ったのですが、1日の撮影を終えて、夜遅く帰宅後に、翌日のセリフを寝る時間を削って覚えていました」