コメディアンを目指すもまさかのクビ宣告

「人生に“夢”は持たなくてもいいと僕は思ってるの。夢を持つとね、ガンコになって生き方が窮屈になっちゃう」

 逆説的だが、それは自分の夢を次々に体現してきた苦労人だからこそ至った境地かもしれない。

 コメディアンになる─という夢を萩本が抱いたのは中学3年生のとき。憧れたのはチャップリンとエノケン(榎本健一さん)。'59年、高校を卒業すると浅草の東洋劇場の門を叩いた。洋服が買えず、まだ学生服を着ていた萩本に、劇場の支配人は言った。

「何かできるのか?」

「何もできないです」

「できないなら、タダな」

 給料はゼロ。それでも夢への第一歩を踏み出したと萩本は思った。とはいえ、舞台の上に芸ナシの若僧の居場所はない。できる仕事は掃除くらい。それからしばらくして、萩本は支配人から呼び出される。そして、怒鳴られた。

「おまえか、コノヤロー! 誰も頼まねぇのに朝早く来て掃除してるっていうじゃねぇか。そういうのはエライんだ! 来月から3000円」

 思いがけない給料の提示。

「大人の世界ってスゲーなと思ってね。3000円の給料をイヤイヤ払うっていうのが支配人の顔に出ててさ(笑)。だけど、自分が掃除してたのを誰かが見ててくれたとわかったときは、うれしかったね」

東洋劇場での下積み時代
東洋劇場での下積み時代

 見習い同然でも、ギャラをもらえばプロである。端役ながら舞台にも出るようになった。そして3か月後。今度は劇場の演出家に呼ばれた。

「“今日でおしまい”って、僕ね、クビを宣告されたの。才能がないのは自分でもわかっていた。舞台に出てセリフを3つもらうと、1つは言えるんだけど、アガって、震えて、あとの2つが言えなくなる。レビューのときに踊れば、リズム感がないから踊り子さんたちの足を引っ張っちゃって、“坊やと一緒に踊りたくない!”って言われる」

 だが、そこで夢は終わらない。ほどなくして戻ってきた演出家が、萩本に告げた。

「欽坊、続けろ」

 クビは撤回。その理由を、萩本はあとから知った。

「劇場の座長格だった役者の池信一さんが掛け合ってくれてね。“今どきあんなに元気よく返事をする子はいない、その返事だけで置いてやってもらいたい”って。僕ね、高校時代にレストランでアルバイトしてて、お客さんから注文を受けると“ハイ”じゃなくて、厨房まで聞こえるように“ハイヤァーッ! カレーライス一丁!!”って、大声で返事してた。その調子で劇場の楽屋でも“ハイヤァーッ!”って返事してたから、それが生きた(笑)」