欲望や快楽を満たすことに運を使うと…

 欲望や快楽を満たすことに運を使っていると、肝心なときに使える運がなくなる。今ある運も、いつまでも続くわけではないと萩本は言う。

 '70年代に入ると、二郎さんは役者としても活躍し始め、萩本も『スター誕生!』(日本テレビ系)などの司会の仕事が増えていく。コント55号の快進撃は止まったが、まだ自分には運が向いていると萩本は思っていた。

「もう55号は終わり、オレはアメリカへ行ってチャップリンと肩を並べる喜劇王になるんだって、夢を抱いちゃったんだね。その気になって英語の家庭教師までつけてさ」

 アメリカのエンターテインメントに精通していた『スタ誕』の井原高忠プロデューサーに夢を語ると、「アメリカから呼ばれてるの?」と、逆に質問された。

「いえ、自分から勝負に行くんですって答えたら、アメリカってところは世界中の優れ者が呼ばれて行く国で、お呼びでないやつが行ってもツラい思いをするだけだと言われて。で、呼ばれるような番組を自分で作ればいいじゃないかって、井原さんは僕の夢を目標に下げてくれたの。番組を作るのはテレビ局の仕事だろうって思ったんだけど、帰ったら車だん吉がね、“大将がアメリカへ行ったらコント55号の名前は日本のお笑いの歴史に残るけれど、萩本欽一の名前は残りませんねぇ”って言うんだよ。弟子のくせに、生意気に(笑)」

 ここで終われば笑い話。しかし、人が絡めば物語はデカくなる。世話になったフジテレビの常田さんに萩本が笑い話をすると、「じゃあ名前が残る番組、作ってあげる」と物語は急展開。萩本も「パジャマ党」を立ち上げ、放送作家の育成に乗り出した。

「そこから生まれたのが『欽ドン!』なの。当初の番組名は『萩本欽一ショー 欽ちゃんのドンとやってみよう!』で、僕の名前が2つも入っていた」

 コメディアンの名前がついたレギュラー番組は日本初。『欽ドン!』('75年・フジテレビ系)は高視聴率を叩き出し、萩本は目標を達成した。「ウチでもぜひ冠番組を」という依頼が他局からも相次ぐ。だが、もともと演じ手である萩本にとって、作家集団を育てながらの番組作りは苦労が絶えない。「ガツガツしないで手堅くいこう」と思っていたときに、作家の野坂昭如さんと雑誌で対談した。

「野坂さんの自宅に呼ばれて行ったら、ご本人が裸足で迎えてくれてね。“ウチの女房、欽ちゃんのファンなんだよ”と言うわけ。でさ、奥さんがお茶を持って部屋に入ってきたら、野坂さん、“そうそう、それでいいんだよ”って偉そうにソファにふんぞり返って、奥さんがいなくなると、“ごめんな、今のポーズだから”って(笑)。僕ね、野坂さんにホレちゃった」

 ホレた相手が発する言葉は心地よく魂を揺さぶる。

「欽ちゃん、なんでもっとテレビに出ないの? タレントっていうのは、毎日見ていてもイヤにならない人のこと。オレ、欽ちゃんがテレビに毎日出ててもイヤじゃないよ」

 それは萩本の成功物語を大きく膨らませたひと言。堅実路線を変更し、萩本は攻めた。『欽ちゃんのどこまでやるの!』('76年・テレビ朝日系)、さらに『欽ちゃんの週刊欽曜日』('82年・TBS系)と新たな冠番組がスタート。『欽ドン!』とともに30%超の視聴率を合算して、萩本は「視聴率100%男」と呼ばれるようになった。

『欽ちゃんのどこまでやるの!』で初代・貴ノ花と腕相撲をする萩本
『欽ちゃんのどこまでやるの!』で初代・貴ノ花と腕相撲をする萩本

 それでも、自分の力で切り開いた人生とは思っていない。

「『欽どこ』のときは必ず稽古場の窓を開けてた。稽古はいつも20回はやっていたから、“これだけ稽古しています”っていうのを神様に見てもらおうと思ってね。よくさ、努力は人が見ていないところでやれっていうけど、それじゃ運にならないの。というのは巨人軍の長嶋(茂雄)さんを研究してわかった。ただ三振しただけならお客さんに失礼だからってんで、長嶋さんはヘルメットを飛ばす練習をこっそりしてたでしょ? そういう伝説って、誰かが見ていたから広まるわけよ。

 僕にもね、“テレビ業界で最初にピンマイクを使った”という伝説がある。そしたら日テレの井原さんが“オレのほうが先に使ってた”って苦笑いしてたけど、残念ながらその事実を伝える人が周りにいなくて、僕にはいたわけね。だから努力をするときは、少しだけ誰かに見られるスキマをあけておく。運を与えてくれるのは、どこかで自分を見ている人なんだから」

 “ダメな奴”であるがゆえに、助けてくれる運を大切にし、その使い方を萩本は意識するようになった。例えば、どんなにモテても色恋のために運は費やさない。「欽ちゃんはオンナ遊びをしない」というのはテレビ業界では有名な話。その理由は、もうひとつあった。萩本には心に決めた女性がいた。東洋劇場で踊り子だった3歳年上の澄子さん。18年越しの想いが叶って結婚したのは'76年のこと。その後、3人の息子を授かった。

「“好きなだけ仕事してこい”と言って、スミちゃんは余計なことは言わずに温かく僕を応援するファンでいてくれた。ひと言で表すと“情黙”の人。僕が気持ちよく仕事してこられたのは、スミちゃんのおかげですよ」

 萩本の結婚運は、自他共に認める「最強」であった。