運を味方に“欽督”として日本一に

'96年に東京・新宿コマ劇場で舞台『花火師の恋』で共演した萩本と前川
'96年に東京・新宿コマ劇場で舞台『花火師の恋』で共演した萩本と前川
【写真】『欽ちゃんのどこまでやるの!』で初代・貴ノ花と腕相撲をする萩本欽⼀

 テレビ業界に衝撃が走ったのは'85年。萩本は「休養宣言」を出し、ほとんどのレギュラー番組をやめた。いい運はいつまでも続くわけではない─ということを萩本が肌で感じたのは、番組の会議で周りから反対意見が出なくなったことだった。それは、自分が作る物語に人が絡まなくなったことを意味した。 

 萩本は活躍の場を舞台や映画に求めた。目指したのは、かつて東洋劇場で培い、自身のコントの源流になった軽演劇。その萩本に、「脚本を書いてください」と頼みに来たのが歌手の前川清だった。

「前川くんはね、『欽ドン!』のときに僕が呼んだの。コメディアンって昔は歌手よりも低く見られていたから、親しく話せる歌手の友達が欲しくてね。前川くんを見たときに、こいつなら騙せそうだと思ってさ(笑)」

『欽ドン!』に出演した前川は、クールな二枚目歌手の殻を破り、三枚目キャラの芝居で新境地を開いた。そのきっかけをくれた萩本を「恩人です」と前川は述べる。

「萩本さんには脚本とともに出演もしてもらって1か月公演をやらせていただきましたけれども、気が抜けませんでした。稽古して、面白い場面を作り上げたら、普通はそれを1か月繰り返すでしょう? ところが、それを萩本さんはアドリブで日々変えていくんです。つまり、今日ウケた笑いに満足せずに、明日は違う笑いを作ろうという芸に対する真摯な姿勢といいますかね。だからもう毎日が恐怖でしたよ(笑)」

 前川は、共演した松竹新喜劇の重鎮・小島慶四郎さんから、「前川さんの間は、欽ちゃんの間でんなぁ」と言われたこともあった。

「『欽ドン!』のときから萩本教室に育ててもらって、そのおかげで私はここまでやってこれたんだなと、しみじみ感じましたよね」(前川)

 前川だけでなく、斉藤清六、見栄晴、小堺一機、関根勤、風見しんご、小西博之、柳葉敏郎、勝俣州和……。いわゆる“欽ちゃんファミリー”として、萩本の下で才能を開花させた芸能人は数え上げたらキリがない。さらに、“師”としての萩本の教えは、スポーツ界にも及んだ。

監督としてゴールデンゴールズをクラブ日本一に導いた
監督としてゴールデンゴールズをクラブ日本一に導いた

 '05年、クラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成して監督となった萩本は、「野球は運だ」と唱え、「3年で優勝する」という公約を実現してみせた。

「地方遠征でホテルに泊まったとき、選手は豪勢な食事を楽しんでいるかと思ったら、“試合前に運は使いたくない”と言って、みんなでカレー食ってたの。それ見たときに、このチームは優勝するって確信したよ」

 ゴールデンゴールズでは、プロで日の目を見なかった選手たちが「クラブ日本一」の栄冠を手にした。“運”とともに人生を歩んできた萩本は、いつしか自分の周りにいる人たちに幸運を届ける存在になっていた─。

みんなが集まれる記念碑のようなお墓を

'17年に駒澤大学にて
'17年に駒澤大学にて

 '15年。73歳になった萩本は大学を受験した。動機は「ボケ防止」。社会人特別入試枠で合格したのは駒澤大学仏教学部。キャンパスでは、当然ながら目立つ学生だった。同級生となった黒田敬仁さんは言う。

「欽ちゃんは僕のばあちゃんと同い年でした。1年生は体育の授業があるんですけど、欽ちゃんは大丈夫だろうかって、孫みたいな気持ちで心配してました(笑)」

 萩本が選択した体育の科目はゴルフ。これならやれた。が、授業をやる古い校舎は4階建てで階段しかない。

「“オレ、死んじまう!”って言いながら欽ちゃんが階段を上っていたので、荷物を持ってあげたんですよ。それがきっかけで仲よくさせてもらうようになって」

 と話す黒田さんは、栃木県にある光真寺の息子。しかし、寺を継ぎたかったわけではなく、入学当初は勉強に身が入らなかったという。

「凹んでいたときに、欽ちゃんから“人生は運だよ、いい運も悪い運も半々、悪いときを辛抱していれば運はたまってくる”と言われて、凹んでいないで欽ちゃんみたいに頑張ろうって思ったんです。で、試験のときに欽ちゃんが“100点取れないならテストに行かない”と言い出したことがあって、つい“僕が教えますからテスト受けましょう”って言っちゃって、自分も勉強せざるをえなくなった(笑)」(黒田さん)

 萩本は、「クロちゃんのお母さんから礼を言われたよ」と微笑む。黒田さんは寺を継ぐ意志を固め、勉強に励んだ。萩本もまた優等生だった。授業には必ず出席。100点は取れなくても成績は常に上位。講義では自分よりも年下の先生にしばしばツッコミを入れ、教室を明るく和ませた。

 単位を取って卒業するのが目的ではなかった。'19年春、まだ身体が動くうちにお客さんを喜ばせたいという理由で萩本は大学を中退。コメディアン魂に衰えはない。軽演劇の公開オーディションなど、物語は新たな局面に進む。