目次
Page 1
ー 作家でフェミニストの北原みのり ー 男子の前だと女子が弱いふりしてムカつく
Page 2
ー 北原の原点となった祖母の旅館
Page 3
ー 念願だった女子大への進学 ー “女の経済”をつくる第一歩を踏み出す
Page 4
ー 予想外だったフェミニスト宣言
Page 5
ー 突然の逮捕・勾留で変わった人生
Page 6
ー 行動すると新しい道が開ける

 津田塾大学を卒業し、アダルトグッズ販売へ。女性による女性のための経済活動をするには、さまざまな困難も。不当な逮捕、祖母の死を乗り越えて軽やかに生きる北原さんの半生を振り返る。

 今から100年近く前の昭和の時代、日本初の女性弁護士となり、後に裁判官、裁判所長となった三淵嘉子をモデルとした連続テレビ小説『虎に翼』が話題となっている。伊藤沙莉演じる主人公の猪爪寅子は、女性が置かれる立場に疑問を感じたり、世の中の理不尽にぶち当たると「はて?」と口にし、納得するまで問題に取り組もうとするパワフルな人物だ。

作家でフェミニストの北原みのり

 このドラマを楽しみ、時に涙しているというのが、女性が安心して使えるセクシュアルヘルスグッズやフェムテックの商品を扱う会社を経営する、作家でフェミニストの北原みのりだ。北原も子どものころから疑問や理不尽にぶち当たると、同じように違和感を抱いていたという。

「私が普段、仕事で使っている名前の“北原”は母の旧姓なんです。戸籍上は渡邉なんですけど、小学生のときにクラスに4人も渡邉がいたので、どうして北原にしなかったのか聞いたんですね。すると父が『俺はじゃんけんで決めてもよかったんだけど、お母さんが渡邉になりたいと言ったんだ』と言って、それをしばらく真に受けてたんですけど……よくよく考えたら変ですよね、男と女は対等なはずなのに。そんな父は教育者で左翼思想の人。リベラルなことを言うんだけど、なんかいつもどこか威張っていて、矛盾してるな、ウソだなって思っていました」

 母の旧姓を使う理由─その根本には北原の母方の祖母の存在がある。『虎に翼』の寅子のひと回りほど下の世代生まれの祖母は結婚せず、ひとりで北原の母を産み、育て上げた。祖父に当たる人物はある会社の創業社長で、祖母はその愛人だった。

「祖母は20歳で母を産んで、母は私を25歳で産んでくれたので、私は祖母が45歳のときの孫なんです。母は祖父にすごく可愛がられたそうで、私も子どものころに1度会ったことがありますけど、年がずいぶん上のおじいさんでした」

 戦後すぐの生まれの北原の母はしっかりとした教育を受けたが、大学進学の際に理系学部へ行くことを反対され、文系大学へ進学。そこで北原の父と出会い、結婚した。

「それが原因で、祖父から勘当されてしまったそうです」

男子の前だと女子が弱いふりしてムカつく

2歳下の妹のあかりさんと
2歳下の妹のあかりさんと

 北原は1970年、神奈川県横浜市で生まれた。当時、家族が住んでいたのは父の実家で、北原が3歳のときに2学年下の妹と家族4人で千葉県柏市に建てたマイホームへと引っ越した。

「母が、たぶん横浜からいちばん遠いところに行きたかったんじゃないかなと思うんですね。父の勤め先が都内だったので、通える範囲で。義父母のいる父の実家に居づらかったのもあるだろうけど、時代的にも核家族で子どもを育てるのが普通でしたし、母方の祖母が千葉の大原で旅館をやっていたことも大きかったんじゃないかな」

 地元の公立小学校へ進学した北原。どんな小学生だったかと聞くと「先生に信頼される、学級委員を絶対やらなきゃいけない感じの、まじめないい子だったと思います」と振り返る。その小学校へ入学してすぐのころの、今でも忘れられない教えがあったという。

「斉藤カツ先生という祖母と同じ世代の超立派なおばあさん先生がいて、その先生が『男の急所は金玉だ。女の子は何かされたら、金玉を蹴れば男は動けなくなる。頑張りなさい』と言って、すごいなぁと思って。小1ですよ? それで『あいつら、身体の真ん中に急所つけて生きてるんだ』っていう男への優位感が得られたんです。カツ先生がそう言ったときの男の子たちの叫び声、まだ耳に残ってますよ。これはもう私にとって、人生の核になってますね。偉そうにしてても身体の真ん中に急所があるんだ、っていう(笑)」

 フェミニズムへの視点はいつごろ生まれたのだろう?

「小学生のときの日記を読み返すと『女子が弱いふりしてムカつく』とか書いてて。男子がいると弱いふりをしていることにめっちゃ怒ってる。全然今と変わってないですよね。女の子同士だと楽しいのに、男がいると感じるジェンダーギャップに気持ち悪さがあったんです」

 小4だった1981年、元参議院議員だった市川房枝が亡くなったことを新聞で知った北原は、戦前から婦人運動家として活躍していた市川に興味を持ち、父にどんな人物だったか尋ねたという。

市川房枝新聞を作っていた小学4年生のころの北原さん
市川房枝新聞を作っていた小学4年生のころの北原さん

「話を聞いて『そんな人いたんだ、私、市川房枝みたいになりたい!』って感動して、ひとりでいろいろ調べて、模造紙で『市川房枝新聞』を作って、学校の壁に『先生、作ったんで張らせてね』と言って張ったりしてました。変わり者の子どもだったんですよ(笑)」

 北原の妹の井口あかりさんは「姉は頭が良く、父と母の期待が大きかった」と話す。

「母は主婦で、仕事もしていたんですけど、私たち姉妹には『家事を手伝わなくていい、勉強していればいいから』と言ってました。母は祖母に厳しく育てられて、大人になっても祖母の前で寝転がったり、リラックスができなくて、父が自分の両親の前で寝転がったまましゃべっているのを見て、とても驚いたそうなんです。なので私たちも厳しく育てられたんですけど、子どものころは父が仕事から帰ってきて家のチャイムが鳴ると、母と姉と私が玄関まで行って、三つ指ついて『おかえりなさいませ』と出迎えるのが当たり前。でもいつだったか姉が『バカバカしい!』とやらなくなってから、その習慣もなくなりました。幼いころから姉は立ち向かっていってましたね。でも父は、姉のことをずっと応援しているんだと思います」