ブラジル公式訪問予定の佳子さま

岐阜県を訪れ、木育施設「ぎふ木遊館」で幼稚園児らと交流する佳子さま(2025年5月20日)
岐阜県を訪れ、木育施設「ぎふ木遊館」で幼稚園児らと交流する佳子さま(2025年5月20日)
【写真】学生時代の佳子さま、割れた腹筋が見える衣装でダンスを踊ることも

 ブラジリアで日本とブラジルの外交関係樹立130周年の記念式典に出席し、ルラ大統領を表敬訪問する。サンパウロやリオデジャネイロなど計8都市を巡って日系人と交流するほか、開拓移住者の慰霊碑を訪ねて献花する計画らしい。

 6月のブラジル公式訪問に先立ち佳子さまは、5月16日、東京都八王子市にある、曽祖父の昭和天皇が埋葬されている武蔵野陵と、曽祖母の香淳皇后が眠る武蔵野東陵を参拝した。グレーのロングドレス姿の佳子さまは陵に進み、玉串をささげて拝礼した。佳子さまは、公式訪問に向け、ブラジルの歴史や文化などについて詳しい専門家から話を聞くなど、着々と準備を進めてきた。

《(略)しかし、ご訪米の実現までには、長い道のりが必要だった。日中戦争に続く太平洋戦争で日本はアメリカを敵として戦った。その間、天皇は日本の軍国主義と超国家主義の象徴でもあった。そして、また、敗戦と占領という日米間にとって不幸な事態が続いた。

(略)戦後三十年の歳月は、かつて戦火を交えた日米両国を政治的、経済的に固く結びつけ、科学技術や生活文化の面でも深い相互関係を形成するようになった。両陛下のご訪米は両国間の友情と信頼と協力関係をさらに高め、戦後三十年を一つの区切りとした新たな日米関係の門出になることを心から期待したい》

 昭和天皇と香淳皇后は、1975年9月30日から10月14日まで、国際親善のためアメリカを初めて訪問した。当時の天皇、皇后両陛下が出発した日の読売新聞社説は《天皇ご訪米と日米の友好親善》との見出しで、このように綴っている。二人の訪米から、今年でちょうど半世紀を迎える。

アメリカ訪問に出発する昭和天皇と香淳皇后(1975年9月30日)
アメリカ訪問に出発する昭和天皇と香淳皇后(1975年9月30日)

 首都ワシントンを訪れた二人は、歓迎式典の後、同じくホワイトハウスで開かれたフォード大統領夫妻主催の晩さん会に出席した。晩さん会場のステート・ダイニング・ルームはシャンデリアが輝き、華やかな雰囲気に包まれていた。まず、フォード大統領が、「(略)日本の天皇の最初の米国公式訪問が、このように私の在職中に行われましたことは、これまた私個人にとって大きな喜びであります。(略)米国民は日本との友好および協力関係を保持し、強化する決意であります(略)」と、歓迎の言葉を述べた。これに対し、昭和天皇は次のように挨拶した。実に味わい深い内容であり、アメリカ訪問の最も印象に残る場面である。

「私は多年、貴国訪問を念願しておりましたが、もし、そのことが叶えられたときには、次のことを是非、貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、わが国の再建のために、温かい厚意と援助の手を差し伸べられたことに対し、貴国民に直接、感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。

 しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます。(略)今日、人類は、公正にして平和な国際社会の創造という、共同の事業に携わっています。私は、日米両国が、さらに知り合い、話し合って、共に力強く安定した国として、おのおのの豊かな歴史と伝統を生かしつつ、この崇高な目的に邁進することを期待します」

 訪米は大成功のうちに終わり、二人は予定どおり帰国。当時の皇太子ご夫妻や首相夫妻らの出迎えを受けた昭和天皇は、「今回の旅行を顧みて、相互理解を通じて国際親善の実をあげることが、いかに大切であるかを痛感しました」などと述べた。「あの不幸な戦争」の時代を生き、平和のありがたさを骨身に染みて感じた昭和天皇だからこそ言える重い言葉ではなかろうか。

 世界中の人たちが仲良く暮らし、平和な世の中を築くためには、「相互理解を通じて国際親善の実をあげること」が、極めて重要である。ウクライナやパレスチナ自治区のガザ地区などで戦火が収まらない今だからこそ、外国との友好親善の果たす役割はより大きなものがあるといえる。佳子さまの海外親善の場での活躍もまた、大切な意味を持つものだ。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に2025年4月刊行の『悠仁さま』(講談社)や『秋篠宮』(小学館)など