テレビをつければ、いまやジャニーズアイドルの姿を見ない日はない。カッコいい男のコを指して「ジャニーズ系」と呼ぶことも定着した。当たり前のように存在する芸能界の一大勢力“ジャニーズ”は、いかにして作り上げられてきたのか。元ジャニーズJr.の石丸志門が、昭和のジャニーズJr.を語る――
現在は“ジャニーズ評論家”としてブログ『じゃにあっく!』を更新中
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「トシちゃんに憧れて自分で履歴書を送ったのは中学1年生の冬でした」

 というのは、10代のころにジャニーズJr.として田原俊彦らのバックで踊り、デビュー前の『少年隊』と全国を回っていたという石丸志門。

「ジャニーズファミリークラブに電話をしたら履歴書を送るように言われたのですが、3か月たっても音さたがなければ諦めてくださいと。すると半年たっても連絡がない。そこで送った学生証の写真がよくなかったのかと思って、ジャニーズっぽい写真を撮って再度送ったのですが、それでも連絡はなく、諦めていた中学2年生の終わりぐらいにオーディション参加の連絡が来たんです」

 オーディションは踊りと演技の試験、カメラテスト、そしてジャニー喜多川氏による面接。演技試験では野村義男を相手に台本を読み、それを目の前に座るジャニー氏が聞くという、狭い部屋に3人だけ。面接でジャニー氏から「ユーの学校は芸能活動禁止でしょ?」と言われると、石丸は「学校なんてすぐ辞めます!」と即答。だが、とりあえず1年間はレッスンをして中学は卒業しようという話になり、「来週からレッスンおいでよ」と言われる。

「それって合格ですか?」と目を輝かせる石丸に、ジャニー氏は「いや~、合格というか、まあ、そう思ってもらってかまわない」と、あいまいな返答。なんだか腑に落ちない石丸は、オーディションに来ている全員に同じことを言っているのかと思い、翌週もレッスン場に行ってみると、そこにはデビュー前の『少年隊』やテレビで見たことのある顔もいて、いきなりダンスのレッスンが始まったという。

「厳しく言われていたのが、ジャニーズに入ったらJr.でもプロだということ。いきなり翌日、ステージに立つように言われることもあるから。なので、レッスンはとにかく厳しかった。毎週日曜の午後1時に始まって夕方6時から8時ぐらいまで。休憩は30分のみ。当時は手も出てきたし、灰皿も投げられた」

 石丸によると、3万人ほどの応募があった中から70人ぐらいがオーディションに呼ばれて、最終的に残ったのは3人。石丸と大沢樹生と正木慎也だった。当時からジャニーズJr.に契約書の類はなく、口約束のみ。給料は歩合制で、都内なら交通費は自腹。

「最初の仕事は武道館で生放送された『日本歌謡大賞』でシブがき隊のバックで踊りました。30秒ぐらいで、大勢いる1人でしたが、とにかく感動しました。その後にレコ大の授賞式に呼ばれたり、トシちゃんの宝塚劇場公演や『レッツゴーヤング』(NHK)で踊ったりしました」

 当時の合宿所は明治神宮前駅の近くにあるマンション。

「上の階には矢沢永吉さんが住み、下の階には永谷園の社長さんが住んでいました。お風呂が2つあり、屋外にプールもありました。ジャニーさんもそこに住んでいました。一番の古株になっていたのが川﨑麻世さんで、トシちゃんとマッチも住んでいました」

 昭和60年に『仮面舞踏会』でレコードデビューをする前から『少年隊』は全国ツアーをしていた。バックで踊るJr.を20人連れて一緒にバス移動。ホテルも大部屋で雑魚寝だった。人気が出るとJr.も精鋭だけに絞られ、最終的に8人に。そこに石丸もいた。

「ツアーのパンフに顔と名前が載るようになり、移動手段やホテルなどの待遇も飛躍的によくなって、青田買いするファンも出てきたんです。8人のうち2人は大沢と内海光司で、彼らは『イーグルス』としてデビュー。僕を含めた残り6人も、いずれグループになると見られていました」

 石丸がジャニーズを辞めることになったのは1本の電話だった。ジャニー氏に『少年忍者』に入ることを断ったら激怒され、ガチャンと切られて、それで終わり。

「当時、僕はドラマやアイドルのバラエティー番組にも出て、名前はテレビのテロップに何度も出ていた。実績があったので、どうしてもソロでやりたくて、『忍者』に入るのは嫌だった」

 若気の至りだったと振り返る石丸だが、結局、Jr.として活動したのは3年半ほど。

「同時期のJr.でグループに入っていないのに、名前がある程度売れたのは、僕と『毎度おさわがせします』(TBS系)に出ていた江端兄弟ぐらいじゃないでしょうか。昔は少人数だったので、Jr.になりさえすればすぐ目の前にスターへの足がかりが見えていました。僕のころには、パスポートさえ持っていれば明日ハワイ行き、ということも起こりえた。それこそ『嵐』みたいに。明日なにが起こるかわからないというのが、最高に楽しかった日々でした」