SNSのタイムラインを眺めていると《〇〇さん、左翼だったなんて知りませんでした。ファンだったのに残念です》といった構文が時折流れてくる。投稿の主は実際のファンではなく“ネトウヨ”と呼ばれる匿名のアカウントで、政権に批判的な著名人を対象にしている。ある日、こんな投稿まで目にした。
《加藤登紀子さん、左翼だったなんて知りませんでした。ファンとして長年応援してきたのにガッカリです》
高校時代から学生運動に没入
これには呆れた。加藤登紀子の長年のファンなら「左翼」だった過去を知らないはずがないからだ。発言だけ聞いて狙い撃ちにしているのだろうが、60年の長い芸能生活において、彼女ほど特異な履歴を持つ存在はそういない。
加藤登紀子は1943年、旧満州国ハルビン市に生まれた。父の加藤幸四郎は関東軍特務機関に属していた名うての人物で、戦後は一転してマーキュリーレコード(現・ユニバーサルミュージック)の部長職に就いている。父親の変節を多感な娘がどう見ていたか大方の察しはつく。
都立駒場高校時代から学生運動に没入し、1962年、東大文科3類に入学。60年安保闘争で命を落とした樺美智子に憧れて東大を目指したというから、根っからの活動家だったのは疑いようがない。
当初は演劇研究会に入るという左翼学生にありがちなコースを進むも、演劇から足を洗うとアマチュアシャンソンコンクールに出場する。応募書類を出したのは父親で「これを機に娘が学生運動から離れてくれたら」と思っただろうことは想像に難くない。
1度目は4位、2度目で優勝すると、ポリドールレコードにスカウトされ、1966年5月『誰も誰も知らない』(作詞・なかにし礼/作曲・中島安敏)で歌手デビュー。2枚目のシングル『赤い風船』(作詞・水木かおる/作曲・小林亜星)が日本レコード大賞新人賞を受賞する。順風満帆なスタートに映るが、本人は当時をこう回想する。
《お金もほどほどにもらえて、ちょっとシャレてるではないかというような気持でさ……。(中略)だけど、歌うってことは身をさらしてるからね。冗談っていっても。だんだん、いい加減に歌えなくなっちゃって》(『音楽をどう生きるか~内田裕也対談集』中村とうよう編/創樹社)























