恋人が収監され、獄中結婚
運命が変わったのは東大卒業式のときである。「振り袖で出席してほしい」という芸能誌の要請を一蹴し、卒業式ボイコット闘争に参加。ジーンズ姿で安田講堂の前に座り込む新人歌手の姿は嫌でも話題を集めたが、これを目に留めた1人の男が現れた。反帝全学連委員長の藤本敏夫である。
「集会で歌ってほしい」という藤本の要請を断りながら2人は恋に落ちる。
出会いから半年後の1968年10月21日、藤本は1000人の手勢を率いて防衛庁を襲撃。左翼史において今も語り継がれる「国際反戦デー・防衛庁突入事件」である。拘留された藤本を想って歌ったのが、日本レコード大賞歌唱賞を受賞する『ひとり寝の子守唄』(作詞/作曲・加藤登紀子)だった。
さらに、酔った藤本が必ず口ずさんでいた『知床旅情』(作詞/作曲・森繁久彌)をカバーすると、140万枚セールスの大ヒット。日本レコード大賞候補にノミネートされ『NHK紅白歌合戦』に初出場をはたす。しかし、本人は至ってシニカルである。
《私がもしレコード大賞をもらったら、場がシラけるのじゃないかという心配まであるわけですよ、私のなかには。いまの状態ならやっぱり尾崎紀世彦さんでなければいけないなとか》(『サンデー毎日』1972年7月30日号)
ミリオン歌手として揺るぎない地位を築くも、翌年「防衛庁突入事件」「神田カルチェ・ラタン闘争」「アスパック阻止闘争」の3件で、公務執行妨害と凶器準備集合罪に問われていた恋人の藤本敏夫に懲役3年8か月の実刑判決が下され、1972年4月21日、中野刑務所に収監されてしまう。
もし、加藤登紀子が令和の女性アーティストなら、周囲の関係者は必死で別れをすすめただろう。ミリオン歌手の恋人が政治犯として投獄されたとあっては、CMに起用されることはまずないし、大手企業がコンサートツアーに協賛することもありえない。しかし、彼女は獄中結婚を選択する。妊娠していたからだ。
《彼が服役中に子供が生まれてくることになってよかったと思うの。おなかが出っ張ったところを彼に見られなくてすむんだもの》(『週刊平凡』1972年6月15日号)
1974年に藤本が出所。ようやく新婚生活が始まり「二度と非合法な活動はやらない」と夫が誓ったことで平和な日々が続くかに見えた。──が、翌年、世間を仰天させる事件を起こしてしまう。



















