両親は自殺の明確なサインを受け取ることができなかった。あとで知ることだが、携帯電話を持っていなかった真矢くんは、リビングにあったパソコンで自殺のやり方を検索し、硫化水素の発生方法も調べていた。

「亡くなる1か月前に自殺の方法を検索していたようですが、本人は“死”に関して口にしていません。いきなり死なれた感じ」(宏明さん)

 硫化水素を発生させる薬剤は5月29日に買っている。前日は真紀さんの誕生日。

「次の誕生日は真矢だね」と問いかけると、「俺はイチゴのケーキがいいな」。その一方で「お母さんは、7、8日って仕事?」と聞いていた。亡くなった7日は月曜日で修学旅行の代休。真紀さんが仕事で不在なのを確認したのだろうか。

 硫化水素は猛毒だ。自殺の発見者にも危険性がある。だからこそ、真矢くんは「扉を開けるな」と貼り紙していた。しかし、見つけた真紀さんにそんな余裕はない。ガスを発生させるバケツを真紀さんはマスクもせず、風呂場に移した。救急車の中では真矢くんの身体をさすっていた。

 真矢くんは遺書に《俺は、『困っている人を助ける・人の役に立ち優しくする』それだけを目標に生きてきました。(略)でも、現実には人に迷惑ばかりかけ、A(※原文では友人の実名)のことも護れなかった。(略)俺は友人をいじめたB、C、D、E(※同じく実名)を決して許すつもりはありません》と友人をいじめていた4人を名指しした。

「2年生のとき、友人がいじめられていることは聞いていました。でも亡くなったのは3年のとき。(終わっていると思ったのに)真矢の中ではいじめは終わっていなかった」

 宏明さんは出棺のとき、「絶対、仇をとってやる!」と叫んだという。

 何があったのかを知りたいと両親は学校へ出向いた。学校とのやりとりは当初、「不毛に感じた」と宏明さん。同席していた市教委の職員2人は発言もない。その後、「調査委員会を作りました」と事後報告された。自分たちの知らないところで動いていることに不安を覚えた。

 真矢くんが亡くなって8日後の6月15日、学校や保護者、市教委、地域住民、有識者からなる調査委が設置された。当時はいじめ防止対策推進法がなく、調査委設置義務はないが、市教委は毎日のように両親のもとへ通った。

「こっちはもう戦闘モード。市教委がまともな調査をしないだろうと思っていました」

 と宏明さん。「報告書を四十九日には持ってこい!」と怒りを持って発言したこともある。すると、市教委側は「そんなに短い間にはできない」と言ってきた。きちんと調査しようという姿勢に、少しずつ心を開いていった。

 聞き取り対象は100人に及んだ。調査委は会合が開かれるたびに、両親に丁寧に報告をした。四十九日となる7月24日には中間報告が出た。最終報告は約3か月後、9月4日に公表された。

 報告書によると真矢くんと友人へのいじめが中学2年生の5月ごろから翌年の3月まで続いた。しかし3年生になりクラス替えがあり、いじめはほとんどなくなっていた。

 ただ、加害生徒から、ほかの生徒へのいじめが起きていた。いじめのターゲットが変わっただけだった。