ガイドをきっかけに日本初の海外レポーターに

 寝る時間もないぐらい辞書を引き、勉強を続けた兼高さんだったが、無理がたたったのか、体重は42キロにまで落ちてしまった。

「それで検診に行ったら、わたくしに結核があることがバレてしまって。急いで帰らないと結核患者ばかりの施設に連れて行かれてしまう。そうなったら大変と、その日のうちに日本に帰ってきてしまった」

 結核が国民病という時代だったが、まずはこの病気を治そうと、この病気の特効薬・ストレプトマイシンを取り寄せた。同時に英語を忘れないようにと、訪日外国人のガイドとインタビューの仕事を始めた。ストラビンスキー(ロシアの作曲家)や旅行作家など“これ”という人に限定しての仕事だった。

「でもそのときも、わたくしは日本のことを知ってないなと痛感させられましたね」

 昭和33年(1958年)2月、早回り世界一周にチャレンジしていたアメリカ人、ジョセフ・カボリー氏が89時間18分37秒の世界記録を樹立した。

 ちょうどそのころ、外国人記者クラブに出入りするようになっていた兼高さんは、耳寄りな情報を耳にする。

 それまでヨーロッパに向かうには、マニラなどを経由する南回り航路しかなかった。

 ところが今度、スカンジナビア航空が東京とコペンハーゲンを結ぶ北回り航路を新設するというのだ。それを上手に利用すれば、新記録を打ち立てられる可能性がある。

 『80日間世界一周』ならぬ『80時間世界一周』のこの試みに、マスコミもおおいに注目。兼高さんはコペンハーゲンに向かい、そこからヨーロッパ数か国を回り、アンカレジ経由で東京というルートで、カボリー氏の記録を破る、73時間9分35秒の早回り新記録を打ち立てた。

1958年、「世界早回り」で新記録をつくった直後。コペンハーゲンでもらった民族衣装を身につけて

 世界新記録での凱旋帰国に、羽田空港では報道陣が大挙して押しかける騒ぎに。

 だがこれが『世界の旅』誕生の端緒となる。ラジオ東京(現TBS)の目にとまり、海外に住む日本人にインタビューする仕事が舞い込んだのだ。兼高さんが振り返る。

「ラジオ東京から電話がかかってきてね。何を聞かれたかは覚えてないけど、向こうの電話口で話していた人がそばの人に、“大丈夫そうですよ、日本語”と言っているのが聞こえました。(兼高さんが)日本語ができるかと、心配だったんですね(笑)」

 番組では大阪万博の『太陽の塔』で有名な岡本太郎氏などをインタビュー。これらが好評で、半年後にはテレビの海外取材番組『世界飛び歩き』に。のちに改題して『兼高かおる世界の旅』となる。

 同番組の記念すべき第1回の旅先は、永遠の都、ローマ。

 1ドルが360円、持ち出し制限が1日17ドルの時代の、100日間の取材旅行である。羽田空港には横断幕が掲げられ、万歳三唱に見送られての旅立ちだった。

 兼高さんが第1回の取材をなつかしそうに回想する。

「わたくしは着物に日傘でしたから、まるでマダム・バタフライ。大通りを歩いていても、反対側の歩道が人でいっぱいになりました」

 以来、兼高さんとカメラマン、そしてその助手のわずか3名での取材態勢が確立されていく。

 インターネットなど影もかたちもない時代、取材の第一歩、情報収集は居酒屋で。

 お酒で口が軽くなったころを見計らい、見どころや現地の抱える問題点を拾っていく。

「現地の庶民と付き合うのがいちばん早いんです。中流で“欲しい”とか“これに困っている”とかいうような人のほうが本音でいいます。ポジションがある人は気取るから、本当のことが出てこない」

 取材時は、車の助手席を自分の定位置と決め込んだ。珍しいものを見つけるとすかさずストップ、撮影を開始するのだ。

 番組で腰を痛めた兼高さんの代役を務めたこともある、友人で女優の草笛光子さん(83)が兼高さんのユーモアセンスあふれるエピソードを披露する。

「兼高さんが“今度、『世界の旅』の代役で貢ぎ物をお持ちして現地の王様にお会いしてちょうだい”と言うんです。(おいしそうな草笛さんの登場に)“もしもあちらの王様が、『ちょっと待て!』とおっしゃったら逃げ出せるよう、しっかりした生地でスラックスを作ってちょうだいね”と。行かないですんだので命拾いしましたけどね(笑)」

 名所旧跡のみならず、現地でしか手に入らない情報満載の『世界の旅』は日本人の海外への旅情をかき立て一躍、人気番組へ成長していった。