ショーアップされた国際派サーカスに

サーカスの花形、ゾウへの感謝も忘れない。ゾウの支援をし続けている 撮影/渡邉智裕
サーカスの花形、ゾウへの感謝も忘れない。ゾウの支援をし続けている 撮影/渡邉智裕
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 悪いことは続くものだが、いいことも続くものらしい。

 その後の東京公演、仙台公演と次々と大ヒットした。その要因を木下さんはこんなふうに言う。

「諦めないということと“人のできないことをやろう”という情熱や意欲。そしてご縁に恵まれたことにもあったと思います」

 ゾウのショーは今も昔も子どもたちに大人気の演目だ。だが当時すでにゾウはワシントン条約の規制で、輸入するのが極めて難しくなっていた。

「ところがシンガポールの動物園に行くと、タイのスリンにつてのある人物がいるからと紹介してくれ、日タイ友好のシンボルとして3か月間だけ貸し出してくれることになったんです。私はそうした人と人とのいい縁がつながれているように感じています

 木下さんはショーで得た収益の一部をタイ本国に送り続け、1999年にはその総額が1千万円に到達した。このお金はゾウの病院『キノシタ・エレファント・ホスピタル』として結実。ミャンマーとの国境地帯で地雷を踏み、傷ついたゾウたちの治療とリハビリの貴重な場所となった。“ゾウたちへの感謝の念を忘れなかった”わけである。

タイ第2の都市、ランパンにショーの収益金で建設されたゾウの病院「キノシタ・エレファント・ホスピタル」。最新の手術施設を備え、チェンマイ大学の獣医など10名が常駐する
タイ第2の都市、ランパンにショーの収益金で建設されたゾウの病院「キノシタ・エレファント・ホスピタル」。最新の手術施設を備え、チェンマイ大学の獣医など10名が常駐する

 辞めていった団員たちの補充にも、新機軸を打ち出した。

 ロシアをはじめとする海外からアーティストを積極的に招聘、さらなる国際化を進めていく。演出方面にもぬかりはなかった。宝塚から振り付けの先生を招聘、サーカスそのものの演出家も、海外から招いた。

 さらに木下さんは、会場そのものにも改良の手を加えていく。大テントの高さや材質などヨーロッパのサーカスの基準を取り入れ、観客が快適で、見た目も洗練されたものに変更していったのである。

 次々と繰り出される取り組みに、ショー全体が明るく華やかなものにブラッシュアップされていく。

 こうした改革に、観客たちも敏感に反応した。“サーカスって昔とはずいぶん変わったね”“ショーとして実に洗練されている”。噂が噂を呼び、観客が観客を呼ぶ。

 注目が高まるにつれ、サーカスは体操や新体操で優秀な成績を残した学生たちの憧れの職場となり、木下サーカスの入社倍率はなんと30倍を超えるほどに。そこにはジンタのリズムに代表される、どこか湿っぽくて怪しい、かつてのサーカスの姿はどこにもなかった。

 気がつけばわずか10年で、10億円の負債はすべて返済されるまでになっていた。

  ◇   ◇   ◇  

 ここでちょっと、サーカスの現場に戻ろう。

目隠しをして、命綱なしの危険な空中ブランコに挑む。会場中が息をのむ瞬間 撮影/渡邉智裕
目隠しをして、命綱なしの危険な空中ブランコに挑む。会場中が息をのむ瞬間 撮影/渡邉智裕

 ショーは吊りロープや布を使ってのパフォーマンス、イリュージョンやはしごを使っての妙技、そしてこのサーカスの一番の呼び物、世界で300頭しかいないというホワイトライオンの猛獣ショーへと順調に進んでいく。フィナーレを飾るのは、大小4つのブランコで2組が華麗に宙を舞う『ダブル空中ブランコ』

 そして、この空中ブランコで、スリル満点の『目隠し飛行』を行っている人物が木下英樹さん(38)。実は木下さんの次男である。

 英樹さんが父と過ごした子ども時代を振り返る。

「子どものころは“お父さんは時々帰ってくる人”という感じでした(笑)。(公演で)父は1か月に1度帰ってくることもあれば、海外公演などで2~3か月帰ってこないこともありましたから。

 でも、岡山で英会話学校をやるようになってからは、月に半分は岡山の家にいましたから、日曜日は朝イチ、5時過ぎに起きて、6時発の新幹線に乗る父を見送ろうと一緒に岡山駅のホームまで行ったりもしましたね」