憲法がなかった沖縄──基地労働者が伝える歴史の「警告」

50年前からあるファストフード店で。「高くて県民は入れなかった」と瀬長さん

「『平和の礎(いしじ)』にようやく父の名が刻まれたんだよ」

 そう話すのは瀬長和夫さん(77)だ。マニラ海軍防衛隊としてフィリピンに出陣し、マラリアと栄養失調で復員後に亡くなった父の名は、今年、沖縄戦没者すべての名が刻まれた石碑に新たに加わった。父は行政の手続きで遅れたが、親戚や集落の住民54名は、すでに刻銘(こくめい)されている。

 瀬長さんは5歳のとき、疎開先の北海道で敗戦を迎え、1947年に沖縄に戻った。

「沖縄戦は本当に悲惨だった。一面焼け野原で、人が生きているのが不思議なくらい。それでもみな、しぶとく生きてきた」

 アメリカ軍は’45年4月に沖縄本島に上陸後、次々と基地建設に必要な土地を占領した。日本の敗戦後も武装兵と重機を投入する「銃剣とブルドーザー」で土地を強制接収、人々は家や耕作地を失った。米軍統治下の沖縄は、戦後の貧しさに加え、職もなかった。

「本当に貧しかった。小学生のころ、米軍が捨てたゴミに食べ物がまぎれていないか拾う上級生もいました」

 瀬長さんは’62年に普天間基地に就職。貧困にあえぐ中、人々は反戦の思いを抱えつつも、基地で働かざるをえない状況にあった。

「当時は公務員や教員も、1、2度は軍作業員になった。生活できないから基地に流れていったんです」

 ’66年ごろから、米軍基地労働者の組合『全沖縄軍労働組合連合会』(全軍労)の結成に関わり始める。

「若い女性労働者が米軍のマネージャーから夜に誘われ、断ったら、翌日には解雇。そんなことが普通でした」

 米軍占領下で日本国憲法が適用されなかった時代。当時は《白人専用トイレ》があり、沖縄の人々は入れなかった。

「おなかを壊した仲間が使ったら、見つかって犬や猫のように放り出されてね。基地の中での差別、無権利状態が続いていたんです」

「反米だ」と尋問されないよう、水面下で説明して仲間を増やした。女性の相談が多く、話を聞くのは夜の仕事を終えてから。深夜のこともあった。

 瀬長さんは、沖縄をめぐる問題の「根っこにあるのは人権の回復」と強調する。