「死は美しいものと教えられていた」終戦直後、母と青酸カリを求めて…

川上さんは「生まれたときから戦争一色、当たり前の日々だった」と話す

「肉も魚も野菜も食べ物は豊富、欲しいものは何でも手に入りました。満州での暮らしは夢のようでした」

 川上百合子さん(仮名・92)は、まるで昨日のことのように話す。

 南満州鉄道の職員だった父親の仕事の関係で1934年ごろから’44年まで、家族と満州に移り住んだ。ハルビンや吉林、新京など、満州の都市を転々とした。

「ハルビンではロシア人家族が同じ宿舎に住んでおり、母はロシア料理をたくさん教えてもらっていました。母が作ってくれたピロシキはとてもおいしかったです」

 料理上手だった川上さんの母・淑子さん(仮名)は、安くて質のいい食材がそろっていた満州でいつも家族のために腕をふるった。さらに、

「私たちが住んでいた家には日本本土にもほとんどなかった水洗トイレがありました。冬場はボイラーで沸かした蒸気が室内を暖めるので“家事もつらくない”と母が言っていたことを覚えています」

 物資も豊富で技術も最先端、日本との差は目を見張るものがあり、満州国はまさに『地上の楽園』だった。

満州から持ってきたアクセサリー入れ。素材は木で70年以上使っている

 帰国後、生活は一変する。

 川上さんは’44年3月、弟の進学を機に母と3人で日本に戻った。

 戦況はどんどん悪くなり、物資は足りず、食べ物は配給のみになった。そんな食材すらも徐々に手に入るものが少なくなり、小さなにんじん1本、具のない雑炊をさらに薄めて分け合ったことも。

「弟は勤労動員の無理がたたり、結核になりました。栄養をつけて安静に、って言われても食べ物はありません」

“満州ならなんでもあった”と、淑子さんはたいそう悔やみ、病床の息子を回復させたい一心で食料を探した。

「私たちのようなヨソ者に対し、周囲は冷たかった。母は着物と食べ物を交換するため、農家に出かけては頭を下げた。そうしてジャガイモや卵などの食材を確保し、少ない配給を工夫し、私たちに食べさせてくれたんです」

 ’44年後半には空襲も激しくなり、満州に残る父と連絡がとれなくなった。心配でたまらなかった。

 19歳だった川上さんは仕事で埼玉・浦和から東京まで通っていたが、煙がくすぶる焼け野原を通ることもあった。

「母はすぐに満州に帰るつもりでいたみたいですが、戦争は激しくなり、それどころじゃなくなりました」

 戦争で人生が180度変わった。終戦直後、死を覚悟したことがあった。連合国軍が上陸し、占領されれば男性は殺され女性は乱暴されると噂が流れていたからだ。「私たちもそれを信じ、逃げることにしました。でも、万が一、敵に捕まったときは潔く自決できるよう、青酸カリを持つことを決めました」

 死ぬことが美しい、と教えられていた時代。

「私たちは国のためにいつでも死ぬ覚悟がある、と考えていました。でも、本当は死ぬことがどんなことかもわかっていなかった」

 青酸カリを求め、医師の叔父が住む新潟を訪れたが、

「渡すわけにはいかない。死ぬことはない」

 と、淑子さんを諭した。

「空襲で命を落とさずにすんだわけだし、青酸カリを飲んで死にたくはなかった。本当は生きていたかった」

 川上さんは言う。

「戦争は遠い外国で起きていることではありません。ひとたび戦争が起きれば被害を受けるのは国民なんです」

 視線の先には、“20歳の自分と母”が映っていた。

 戦後72年─。戦争を体験した人は減り、平和な日常が当たり前となった。しかし、数多くの命が奪われた過去を、私たちは決して忘れてはいけない。