バカにされ、いじめられ……

 1944(昭和19)年、樺太(現在のロシア・サハリン)に開拓民の4代目として生まれる。終戦後は北海道の札幌に移り住み、シベリア帰りの父を迎え、妹2人弟1人も生まれた。

 父はコンクリート製品の製造と住宅の基礎工事を手がける土木会社をつくり、母は生活のためにヤミ米屋を始めた。

 父の事業の儲けは少なく、もっぱら生活資金はヤミ米販売に頼っていた。物心ついたころから似鳥少年は、ヤミ米の配達や兄弟の子守り、鶏の世話など家の手伝いをし、遊ぶ暇もなかった。

 小学校では「ヤミ屋、ヤミ屋」と罵られ、貧しいゆえにツギハギだらけだった衣類をバカにされた。

「おしりのツギをボール遊びの的にされて……これが痛いんですが、逃げるとまたボコボコに叩かれました。いじめられてもいつもニタニタしていたので、ニタリくんと呼ばれていましたね。勉強もできなくて通信簿は5段階の1か2ばかり。すさまじい劣等生でした」

(左)いじめられっ子だった小学生のころ。あだ名はニタリくん。(右)母と生後まもなく
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 中学生になってもいじめは続き、あるとき配達中に自転車ごと近所の川に突き落とされた。頭から突っ込んでいれば死んでいたが、運があった。

 ドロドロになって帰宅すると、慰められるどころか、仕事の失敗を許さない母から「落ちた米を拾ってこい」と怒鳴られる始末。川に戻ってさらったが、10分の1ほどしか回収できなかった。その晩は泥臭さの抜けない米を食べたという。

 高校は北海道工業高校へ進学。ここでも不良グループに目をつけられリンチに遭ったり、60人中どん尻の成績だったりとさんざんな学生生活が続いた。カンニングを駆使して何とか卒業にこぎつける。

 父はすぐにでも家業を継がせるつもりでいたが、きつい仕事から逃げたい一心で大学進学を懇願する。自立することを条件に許してもらい、札幌短期大学へ入学した。

「4年制の大学は全部落ちたので、短大へ行ったのですが、実はこれも替え玉受験でした。のちに編入試験を受けて北海道学園大学に進学しましたが、アルバイトとビリヤードなどの遊びに明け暮れ、大学で学んだことはほとんどありませんでした」

 卒業後、広告会社で営業職に就いたが、まったく契約が取れず、半年で解雇される。

「その後、再就職を試みましたが結局うまくいかず、しかたなく父の会社に入って土木工事の現場を渡り歩きました。ところが火事で現場が全焼し、仕事がなくなってしまったのです。ほかにやることもないので、借金をして商売を始めることにしました

見合い婚の妻が幸運の女神

 これがニトリの創業となる。’67年、父の会社が所有していた30坪の土地と建物を利用し、資金100万円を借金し家具店を始めた。

「家具店にしたのは周囲になかったからで、そのときは家具の将来性や可能性など何も考えておらず、食べていければいいと思っていました」

札幌の第1号店。看板に北支店と書いたのはほかに本店があるように思わせるため

 当時、似鳥さんは対人恐怖症で接客がまったくできず、当然売り上げは上がらず赤字続きとなる。お金に困って15円の即席麺ばかり食べていたら、栄養失調で体調を著しく崩してしまった。創業したはいいが、倒産も時間の問題という窮地に追い込まれる。

「そんなとき“結婚して嫁に接客してもらえ”と両親にすすめられ、見合い8回目にして今の妻と出会ったのです」

 24歳のとき、20歳の百百代さんと結婚する。百百代さんは接客上手で固定客をどんどん獲得していった。それまで月に40万円ほどしかなかった売り上げが倍増し、赤字が黒字に転じた。そんな幸運の女神である百百代さんは、結婚当初の似鳥さんをどう見ていたのだろう。

夫は普通のお兄ちゃんという感じで、事業欲もなく遊ぶことばかり考えている人でした。私はもともとサラリーマンの奥さんになるより商店を切盛りするようなところに嫁ぎたいと思っていたので、夫と会ったとき一緒に頑張っていこうかなと思ったんです」

 百百代さんは接客だけでなく、トラックに乗って配達も始めた。

「小さいお店なので、今すぐ持ってきてほしいとか、明日使うから今日持ってきてほしいとか頼まれるんですよ。でも夫はパチンコだかどこだかへ遊びに行っていていつもいない。それを探し回るのが嫌で、自分で免許を取って配達していました」

 賢明な妻の働きにより、似鳥家具卸センターは軌道に乗った。1男1女の子宝にも恵まれる。

 札幌市北28条東に出した250坪の2号店、北栄店も順調に売り上げを伸ばし、万事がうまくいっていたところに思わぬピンチが訪れる。近隣に面積が約5倍以上もある競合店がオープンしたのだ。たちまち売り上げは落ちて、資金繰りが悪化。金融機関から融資をストップされ、再び倒産の危機に追い込まれた。似鳥さんはうつ状態になる。

「毎日、夜逃げか自殺のことばかり考えていました」