「アメリカ視察」で一念発起

 切羽詰まった思いが続く中、家具業界のコンサルタントからアメリカの家具店の視察セミナーの話を持ちかけられた。

 似鳥さんは「何かのきっかけになるかも」と、40万円の費用を借金して、藁にもすがる思いで参加した。この旅行で受けた衝撃は、似鳥さんの人生観を一変させることになる。27歳のときだった。

「まずモノの値段が安いことに驚きました。家具の値段も日本の3分の1と安い。それは実質的に米国の所得が日本の3倍あることを意味しました」

 圧倒的な低価格とアイテムの豊富さ、トータルコーディネートの美しさは、家具小売店が巨大チェーンだからこそ実現できたものだとわかる。

「日本でも米国の豊かさを実現したい。自分の力で価格を3分の1に下げることができないだろうか」

 そう考えるようになった。

 またアメリカではクローゼットやつくり棚などにモノをしまうので、部屋の中にはほとんど「箱物」といわれる収納家具はない。家具の少ないスッキリとした部屋にさりげなく絵や鏡が飾られていて、センスがいいと感じた。一方でイスやソファ、ベッドなどの「脚物」は充実していた。

「日本も20~30年後に必ずこういう姿になる」

 似鳥さんはそう確信した。ほかの参加者もアメリカの小売りチェーンのスケールの大きさに感心していたが、「日本とアメリカでは文化が全然違う」「アメリカのものをそのまま持ってきても、日本では売れない」というのが大方の意見だった。

「私のように“自分の店をチェーンストア化しなくては”“まずはアメリカを100%まねてみよう”と考えた人はいなかったと思います」

師匠の教えとともに快進撃

 帰国後、とにかく店をたくさん出そうと決意した似鳥さんは、経営難の原因となった競合店の西に3号店、麻生店を建てた。これが当初から好調で起死回生の出店となる。

「大チェーンをつくって日本を豊かにする」という目的は明確になったものの、その方法を模索しているとき、経営コンサルタントの故・渥美俊一さんと出会い、’73年、渥美さんの主宰するチェーンストア経営の研究団体「ペガサスクラブ」に入会した。

「ここで渥美先生に企業はお客さまのため、人のため、世の中のためにあることを教えられ、ロマン(=志)とそれを実現するためのビジョン(=20年以上先の目標)を持つことの重要性を叩き込まれました。私は“住まいの豊かさを人々に提供する”というロマンを実現するために“30年かけて100店舗、売り上げ1千億円にする”というビジョンを掲げたのです」

右から2人目がチェーンストア経営の師・渥美さん。店を見に来て「なってない!」と帰ってしまうことも

 似鳥さんは渥美さんに厳しい指導を受けながらも、「亀は兎に勝つ。鈍重たれ」という言葉に励まされた。最初は無理かもしれないと思っていた目標に本気で取り組むようになる。

「鈍いし、理解できないし、人の話も聞いていない。それでも、ここまで事業で成功できたのは、先生の教え、ロマンとビジョンのおかげだと思っています」

 ’93年には本州進出を果たし、’94年にはインドネシアに自社工場を建て、’02年には東証1部上場。翌’03年には当初の30年計画より1年遅れではあったが、ついに100店舗を達成した。

「ここで満足してはいけないと、100店達成のイベントは開かず、次の目標だけを見据えました。海外で自社生産を始めたのは、ニトリの希望どおりの商品をつくってくれる企業が見つからなかったからです。結局、製造・物流・小売業という世界初の業態ができあがりました

 商品力をアップするために大手メーカーの技術者を探していたところ、’02年、飛行機の中でホンダのエンジニアだった杉山清さんと出会い、その後、ニトリに迎えた。

「’07年、新潟県の陶器業者から仕入れた中国製の土鍋から、鉛が溶けだしていたことがわかり、約9千個回収する事態が起きました。これを受け、杉山さんはホンダOBを新たに招いて、品質管理の強化に尽力してくれました。今では商品に工場レベルで異物が入ったのか、故意に混入したのかどうかまでわかるようになっています」

 その後、大規模リコールは発生していない。土鍋事件は「お、ねだん以上。」実現への教訓になったと話す。