葉っぱは散って養分となり、花を咲かす

 年が明け、今年になると、日野原さんの体調は思わしくなくなった。1月29日、「新老人の会」の会議のため、日野原さんと会ったときに交わした会話を、石清水さん(前出)は覚えている。

「先生、来年4月以降、『新老人の会』の地方講演にいらっしゃれますか」

 すると、つらそうな声を絞り出しながら、こう話した。

「もう、行けないね」

 3月には、自宅で付き添っている日野原さんの次男夫妻から、面会の誘いを受けた。胃瘻も拒否し、もう長くないという感触があったのだろう。4月初旬に行くと、衰弱は隠せない様子だった。

 ところがである。2か月後の6月、日野原さんから直接電話があった。滑舌もしっかりし、張りのある声だった。

「僕ね、2日前、病院で検査を受けたんだけど、どこも悪くないんだそうだ。これから地方にも行けるようにリハビリするよ。次はどこ?」

 振り返れば、これが最後の元気な日野原さんだった。

 ほぼ同じころ、担当編集者の岡島さん(前出)が見舞いに行くと、同居する次男夫妻への手土産として持っていった最中を見た日野原さんが、「僕も食べたい」と言い出した。誤嚥の危険性があるので本当はいけないのだが、指先ほどの大きさにしてもらって食べていたという。

『ハルメク』編集部・岡島さんと。「日野原さんから一緒に撮りましょう」と言われ撮った最初で最後のツーショット(撮影/中西裕人 協力/『ハルメク』編集部)
『ハルメク』編集部・岡島さんと。「日野原さんから一緒に撮りましょう」と言われ撮った最初で最後のツーショット(撮影/中西裕人 協力/『ハルメク』編集部)
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「最期まで生きるエネルギーを感じました。次男の奥様によると、おにぎりが食べたいとおっしゃるので、やわらかいご飯を握ったら、“パリパリの海苔で巻いたのが食べたい”と怒られたと、笑いながらこぼしておられました」

 しかし、それから1か月と少しで最期を迎える。

 前記の自叙伝の中で、《最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するだろう》と書かれているが、実際そのとおりの最期を迎えられたという。3人の息子などお世話になった人に「ありがとう」という言葉を残して。

 日野原さんは多くの人のために、命を使った。それは、葉っぱが散って木の養分になるように、今後いろいろな花を咲かせるに違いない。


取材・文/西所正道

西所正道(にしどころ・まさみち)◎奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を書いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。縁あって神奈川県葉山在住。