早春に咲く庭の梅に亡き妻を思う

 ただ現実には、自身の死よりも先に、妻・静子さん(93歳没)との別れがあった。2013年5月、日野原さんが101歳のときである。

 妻であり、経理をするなど夫の仕事を支えるパートナーであり、一方では、知り合いが投げかける悩みの相談に優しくのることから、「田園調布のマリアさま」と言われるような存在でもあった。

 しのぶ会で披露した自身の詩『静子を想う──二人の掌』の一節が切ない。

《毎晩寝る時は 私の左手と静子の右手を合わせる 左手は私の掌 右手は静子の掌 二つの掌のタッチの中に 静子を私は感じる……朝夕の見舞いに握った手のあたたかさを思い出す私は あゝ、何という幸せか》(前掲自叙伝)

 遺骨の灰を、梅の植わる庭に撒き、早春に咲く白梅、紅梅を見ては、妻を思った。

 その妻への思いが、ほとばしり出た瞬間があった。

 昨年の11月7日、日野原さんは、「新老人の会」のイベントに参加していた。当時は、心臓病の影響で、車イスを利用していたが、約1500人の会員を前に、戦争と平和に関する講演をした。そのあと、加藤登紀子さんの歌を客席で楽しんだ。

「新老人の会」で、加藤登紀子さんが『愛の讃歌』を歌った後、抱き合った2人。日野原さんは加藤さんが以前所属していた事務所の石井好子さんと旧知の仲。だから「好子ちゃんの登紀子ちゃん」という認識だったかもと
「新老人の会」で、加藤登紀子さんが『愛の讃歌』を歌った後、抱き合った2人。日野原さんは加藤さんが以前所属していた事務所の石井好子さんと旧知の仲。だから「好子ちゃんの登紀子ちゃん」という認識だったかもと
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 加藤さんが『愛の讃歌』を歌い上げた直後である。日野原さんはすっくと車イスから立ち上がり、加藤さんに向けて、拍手し始めたのだ。

 その姿に感激した加藤さんは、壇上から下り、日野原さんのもとに駆け寄った。そして2人は抱き合うのである。

 なぜ、それほど、この『愛の讃歌』は日野原さんの心をとらえたのか。加藤さんは、

「この歌は、人は死ぬけれども、その後も生き続けるということを歌っているのです。それが伝わったのだろうと思います」

 実はその日、加藤さんが歌った『愛の讃歌』は、越路吹雪の歌唱で知られる岩谷時子による訳詞ではない。加藤さん自身が訳したものだ。

 もしもあなたが死んで 私を捨てる時も 私はかまわない あなたと行くから 広い空の中を あなたと二人だけで 終わりのない愛を 生き続けるために

 これはもともと、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフが書いた詩だ。この歌を聴かせたくて、ピアフは当時、熱愛中だったボクサーをパリから公演先のアメリカに呼ぶのだが、乗っていた飛行機が墜落。翌日の夜、喪失感の中で、この曲を歌ったという。

 加藤さんは自分の訳詞で歌おうと思った矢先、夫を亡くし、しばらく歌えないでいた。しかし40周年のコンサートを機に歌い始めた。するとピアフが乗り移ってきたような感触があったという。

「人が亡くなったとき、それが始まりであると。ここからは誰にも邪魔されずに、2人だけの永遠の時間が始まる。この歌は、そういう高らかな愛の宣言だったとわかったのです」

 ピアフが加藤さんに乗り移ったように、加藤さんの思いが日野原さんにも伝わり、静子さんとの永遠の時間を感じたのだろう。