控えめな目標。このままではいけない

 根っからの前向きさと自主性が2002年ソルトレーク五輪出場を呼び込んだのだろう。彼女は高3で世界の大舞台に立つチャンスを得る。

 ただ、本人は「参加することに意義がある。この大会が終わったら競技はやめて、普通に大学進学して、次の人生を歩もう」というくらいの気持ちでアメリカへ赴いたという。22位という結果もごく普通に受け入れた。

高校時代に早くも日本トップレベルに躍り出た
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 けれども、その傍らで、一緒に参戦した4つ上の先輩・飯田蘭(現姓=市井)が上位16人で争う決勝に残った。彼女の頑張りを目の当たりにした18歳の高校生は少なからず衝撃を受け、「日本人でもやれるんだ」と確かな実感を手にした。これが人生の転機になったのは紛れもない事実だ。

ソルトレークのころは“日本人は世界では勝てない”と言われていて、私自身もそういう固定観念はありました。でも五輪の1~2年前からフランス人コーチに指導を受けたことで世界や価値観がガラリと変わったんです。

 智香は当時、高校時代の先生とマンツーマンで努力していて、お互いに世界を意識していたけど、世界との距離をなかなか縮めることができなかったのかもしれません。実力は私とそう変わらなかったのに、自分は決勝に進めず、私が勝ち上がった姿を見るのがすごく悔しかったのかな。

 彼女の表情からそんな思いが見て取れました」と市井さんは若かりし日の後輩の姿を思い返す。

 この指摘どおり、竹内は「日本人の壁」に苦しみ続けることになる。2006年トリノ五輪までの4年間は「私にもできる」と考え方を変えて挑み、ワールドカップ表彰台も経験。世界ランク上位に浮上し、上位を狙える位置につけていたはずだった。が、結果は9位。

「“参加することに意義があった”ソルトレークから1つ変わって、トリノは“決勝に行く”と目標を1つ上げただけだった。結局、実現可能なターゲットしか見ていなかったんです。トリノが終わった時、“なんで、もう1段階、上を目指さなかったんだろう”という後悔ばかりが残った。成長してないなと気づかされたのがこの大会でした」

 と竹内は22歳の挫折を打ち明ける。海外トップ選手への引け目や劣等感をどこかしらの部分で感じていたから、控えめな目標設定をしてしまったのかもしれない。

 このままではいけない……。

 これが新たな人生の幕開けだった。