父が導いてくれた突然のデビュー

 高校卒業後は2年制の美容専門学校への進学を希望。めでたい門出を祝う春になるはずだった。しかし、大きな不幸が五十嵐家を見舞う。

専門学校入学直前の3月24日、突然父が亡くなったんです。若いころに結核を患い、確かに丈夫な身体ではなかったんですけど、私は検査入院くらいにしか思っていなくて。

 そのときのこと、あまりにショックが大きかったんでしょうね、ほとんど記憶がないんです。でも父が亡くなる前日に電話で話をしたことは覚えています。めったに怒らない父に“俺がこんなときくらい、妹や弟の面倒を見られなんでどないするんや”と怒られて。ちょっと家のことをサボっちゃったんですね。次の日、父の誕生日でもあったのでお見舞いに行って謝ろうと思っていたんですけど……。誕生日が命日になってしまいました。謝れなかった悔いがずっと心に残ってるんです」

 五十嵐さんも母親も、心のダメージは想像以上に大きかった。「このままではお母さんも私もダメになってしまう。お父さんが残した『美紀』を盛り上げて元気にならなくちゃ」と美容学校を休学。友人たちの手も借りながら『美紀』を再オープンさせた。

 悲しみに包まれつつも次第に日常を取り戻した五十嵐家。ある日、五十嵐さんは友人と、気晴らしに近所のピアノバーへ飲みに出かけた。そこで思いもよらぬ「デビュー」を果たすことになる。

 たまたま五十嵐さんの知っている曲が流れ、休憩のときに「さきほどの曲、素晴らしかったです」とピアノ弾きの男性に声をかけると、「君、詳しいね、歌えるの? 歌ってみますか?」と言われた。

 怖いもの知らずだった五十嵐さんは「歌わせていただきます」と即答。何を歌ったか覚えていないそうだが、オーナーから「ギャラを出すから歌いにこないか」と誘われた。月に1回のステージで5千円。評判が評判を呼び、他店からも「出演依頼」が舞い込むようになった。五十嵐さんは、歌う楽しさを思い出していた。

「持ち歌が10曲ほどしかなかったので必死に曲を覚えました。ピアノバーの先生が、私の声のキーに合うように譜面を作ってくださったり、個人が運営する音楽学校に通ったり。“スタンダードジャズって何?”と言うくらい知識がなかったですから(笑)」

 そして’92年、五十嵐さんにジャズシンガーの道を歩むための決意と、自信をもたらす出会いがあった。大阪日航ホテルのラウンジが、1年間ホテルで歌うシンガーを募集。そのオーディションでのことだった。

 審査委員長は著名作曲家の服部克久氏。以前、酔った客に罵倒された五十嵐さんの声を「ジャズは個性。あなたの声はすごくいい。このままで頑張りなさい」と褒めた。

 オーディションは持ち歌が少ないため、対象外だった。しかしメジャーデビュー後、五十嵐さんがMCをするラジオ番組に服部氏がゲスト出演。そのときにこのエピソードを披露すると「僕、そんなこと言ったの? 無責任なことを言っちゃったな」とふたりで笑い合った。