そうだ、カフェをやろう

 1945年8月。終戦からわずか6日後、疎開先の浦和で文子は生まれた。自宅は現在のカフェ・バッハの土地にあったが空襲で焼け、あたり一面、見渡す限りの焼け野原。戦後の混乱がおさまるのを待ち、父は「下総(しもふさ)」という食堂を営んだ。

 文子は早朝から夜遅くまで懸命に働く両親の背中をよく覚えている。母は店を手伝い、5人の子育てをしながら、近所の子どもを集めて茶道を教え、俳句や詩吟もたしなんでいた。文化的な人だった。

 幼少のころの文子はお転婆で、喧嘩に負けたことはない。男の子のようだと言われ、快活にのびのびと育った。

 父が体調を崩し、60歳で店をたたむと言ったとき、文子は20歳になっていた。当時、洋裁を学んでいたが、思うところあり、こう宣言した。

「お父さんが食堂をやめるなら、私がやる。お酒を出さないお店をやります!」

 戦後の高度経済成長を受けて、当時の山谷には日雇い労働者があふれていた。「ドヤ街」とも呼ばれた街に簡易宿泊所と立ち飲み屋が並ぶ。その日の仕事にあぶれ、日中から酔っ払った労働者たちを幼いころから見ていた。

「小中学生のころは山谷に住んでいることが恥ずかしかった。通学途中、道端に寝ている酔っ払いを見て、ぐうたらな人だと思っていたんです。私は本当に無知でした。戦争の犠牲になった人のことや歴史的な背景を知らずにそう思っていた。

 父の食堂でもそれまでお酒は出していましたが、私は、山谷に1軒ぐらいお酒を出さない店があってもいいじゃないかと考えたんです」

 父は「ブンコ(文子の愛称)がやりたいならいいよ」と快諾してくれた。「ブンコが1度言い出したら誰にも止められない」ことは、家族みんなの知るところだった。

「そうだ、カフェをやろう。お酒を飲めない人、若い人たちも集える場所を作りたい」

 一方、護は、大学時代からカフェへの憧れを抱いていた。文子の住む東京から遠く離れた街、北海道の札幌で護は生まれた。1938年、戦前の「産めよ増やせよ」の時代である。9人きょうだい、6男3女の末っ子。両親、兄、姉、家族みんなに可愛がられた。

「大学進学で上京すると、同級生はみな大人びていて、侃々諤々(かんかんがくがく)と議論していた。自分は何も知らない甘ったれだと思い知らされました」

 下宿先の下北沢でその後の人生を大きく変える運命的な出会いがあった。

「私は、ある有名な喫茶店に通い詰めていました。演劇や映画関係者、役者や芸術家を目指す人など、魅力的な大人が出入りして活気があった」

 護の指定席はカウンターの入り口近く。そこで、聞こえてくる会話に耳を傾ける。

「その店に集う人たちの人間としての資質、知識、会話の深さに感化され、その店の虜になりました」