出会いから意気投合のふたり

 家からの仕送りは限られている。いつも店でいちばん安い60円の飲み物を頼んだ。それがコーヒーだった。しっかりとした味で美味しかった。「今月はちょっと苦しいな」とこぼした日、500円札で支払うとマスターが1000円札を差し出した。「持ってけ。仕送りが来たら返せ」

 60年たった今も、そのときのことを鮮やかに覚えている。

「マスターは人としての大きさがある方でした。よく話してくれたのは、“人を育成すること、人を育てることは非常に尊いことだ”ということ。その言葉どおりに、私のような甘ったれた学生に懐深く接してくれた。本や映画、人生のいろんなことを教えてくれた。あの店で過ごした時間が生きるベースとなりました。マスターと出会わなければカフェをやりたいと思わなかった。全く違う人生になっていたと思います」

 そんな文子と護が初めて出会ったのは北海道だった。文子23歳、護30歳のころである。

 横長の大きなザックを背負い、ひとりで北海道を訪れた文子は親戚の紹介で護を訪ねた。今でいうバックパッカー、当時の「カニ族」である。

「お袋を連れて一緒に北海道を案内したんです。そのときクラシック音楽の話になった。偶然、同じピアニスト、リヒテルの来日コンサートチケットを買っていることがわかって、意気投合しました」

 護は大学卒業後、家業のボイラー整備の仕事を手伝い、趣味でクラシックを楽しんでいた。いつかカフェをやりたいという思いも胸にある。バッハが好きで、札幌中のレコード店に「バッハ入ってる?」と聞いて回るため、店員から「バッハのおじさん」と呼ばれるほどだった。

 ふたりの会話は途切れることがない。結婚を決めるのに時間はかからなかった。文子は当時をこう振り返る。

「私、本当にハングリーだったの。お金が貯まれば服を買うより音楽に使っていた。“バッハのおじさん”と呼ばれているなんて、これは間違いないと思いました(笑)」

 護も文子に心惹かれていた。

「兄が音楽教師だったこともあり、集まると必ずみんなで歌う家族だったんです。ピアノを弾ける女性と結婚したいとよく言っていたので、兄に“文子ちゃんはピアノ弾けないけどいいの?”と言われました。私は“ピアノを弾ける人というのは、物理的なことじゃない。そういうものを愛でて尊いと思い、人としてかけがえのないハートを持っているかどうかだ”って言ったの。われながら、カッコいいこと言ったもんだよね(笑)」

食堂を継いでから、'75年の改装まで店名は『shimofusaya』
【写真】カフェ・バッハの歴史、文子さんのグランドハープ

 日本はサラリーマン全盛期だったが、ひとりでカフェを始めていた文子のもとへ行くことに、護はためらわなかった。文子の実家の姓「田口」を名乗ることも快諾した。

「みんながサラリーマンに邁進している時代だからこそ、自分たちの手で生きていくのが魅力的だと思った」(護)

 こうして、ふたりのカフェ人生が幕を開けたのである。