本作は小説、映画、音楽など多岐にわたる分野で才能を発揮する川村元気さんの4作目の小説。息子を忘れていく母と、母との思い出を蘇らせていく息子の愛と記憶とひとつの事件の物語だ。まずは作品作りの経緯について伺った。

「5年前に認知症になった祖母に久しぶりに会ったら『あなた誰?』と言われたんです。当時、僕は35歳でしたが、ショックを受けたのと同時に『あなた誰?』に対して答えられない自分に混乱しました。

 何と言ったら自分というものを証明できるのかがわからなかった。自分の名前や仕事、好きな色や食べ物、はたしてそれが自分の証明なのかと問われると自信がない。さらに言えば、祖母が僕を忘れてしまったら、祖母と自分は親族なのかと。仮に僕を忘れてしまったのが母であったら、自分と母の関係を何が証明してくれるのか……。そこが執筆の入り口でした」

 その後、祖母と会うたびに、自分と祖母との思い出を話していったと語る川村さん。

「こういう場所に行った、こういうものを食べたといった話を重ねていきました。祖母は僕のことを思い出したり、忘れたりとまだらな状態でしたが、一緒に海に行ったエピソードを話したら、それは湖だと訂正されたんです。『そんなことないよ』と、その場では否定したのですが、自宅に帰って写真で確認してみると、祖母が言っていたほうが正しかった。これには驚きました。

 いかに自分が記憶を改ざんしたり、都合よく忘れて生きているかを、記憶をなくしていく祖母と話をしていくうちに気づかされたんです。ですから、記憶を失っていく人の話ではなく、記憶を失った母と向き合うことで、自分の記憶の曖昧さに気づいていく息子の話を書きたいと思ったのが最初です」

 また、自著の理系研究者との対話集『理系に学ぶ。』での人工知能研究者・松尾豊氏との対話も大きく影響した。

「松尾さんに『なぜ人工知能(AI)を作りたいのか』と尋ねると『人間を作りたいからです』という答えが返ってきました。そのためには、ひたすらいろんなことを記憶させるのだと。

 例えば、将棋のAIを作るのであれば、ありとあらゆる棋譜を暗記させる。それを聞いたときに、人間はやはり身体ではなく記憶でできていると確信しました。同時に自分がもしすごい作家のAIを作るなら、その作家から“愛”の記憶を全部消去するのではないかと思ったんです。

 すると“愛”の記憶がない作家のAIは、それ以外のありとあらゆる言葉と表現を使って、“愛”を創造しようとする。そのときにこそ素晴らしい作家性、個性が生まれるのではないかと。

 作家でなくても人間は自分の欠損部分を埋めようとすることで、それが個性や生き方になっていく。人は“何を覚えているか”ではなく“何を忘れてしまったか”で、できているのではないかという気づきがあったんです。

 ですから認知症になって忘れていく中で、それでも最後まで覚えていることが、その人を絶対的に決定づける、という話を書きたいと思うようになりました」