歌謡界の女王・美空ひばりさんが亡くなって30年。命日の6月24日、横浜の港を見下ろす高台にある墓地でしめやかに法要が執り行われた。長男でひばりプロダクション社長の加藤和也氏、バス3台を連ねてやってきた後援会のメンバー130人、さらには一般のファンも訪れる中、ひっそり参列したのが「付き人」の関口範子さん(79)だ。

 昭和36年から28年間にわたって美空ひばりさんに仕え、その最期を看取った関口さんが初めて明かす秘話とは……。

「病室の表札をどうしようか」

 ひばりさんが東京・順天堂大学病院に入院したのは、平成元年3月15日のこと。前年の東京ドームコンサートであざやかに復活を遂げたひばりさんは、この年全国28か所を回るツアーをスタートさせた。しかし体調はすぐれず、2月7日の九州厚生年金会館での公演を最後に済生会福岡総合病院に緊急入院する事態に。その後、自宅療養を経て東京で再入院したのだ。

九州から東京に戻る際にはヘリコプターを利用したのですが、エンジンとプロペラの轟音が機内にも響きわたり、お嬢さん(ひばりさん)はじっと目をつぶっていらっしゃいました」(関口さん、以下同)

 残りのツアーはすべて中止に。さらには、この年オープンする「横浜アリーナ」のこけら落としコンサートの中止も発表されたので、ひばりさんの容態が悪いことは各方面に知れ渡っていた。

 それでも当初、ひばりさんの入院は極秘扱いとされた。

「なので、病室の名札をどうしようか、という話になりました」

 ひばりさんの本名は加藤和枝だが、

「名札が加藤だと、すぐわかってしまうからどうしようかと。お母さん(故・喜美枝さん)の旧姓・諏訪でも、マスコミの人には気付かれてしまうしね、というような話をしていた時に、お嬢さんが高倉健さんのことを言い出したんです」

 ひばりさんと高倉健さんとの交流は、昭和32年の映画『青い海原』から。当時20歳で人気絶頂のひばりさんが、売り出し中の若手だった健さんを相手役に迎える形だった。以来、映画『べらんめぇ芸者』シリーズなど13本もの作品で共演している。また、健さんがひばりさんの親友・江利チエミさんと結婚していたこともあり(昭和34〜46年)、プライベートでも近しい間柄だ。

「お嬢さんが“健ちゃんの名前は小田っていうのよね”とおっしゃるので、“そうです。高倉健は芸名で、小田剛一さんという本名だったと思います”と私が答えたら、“じゃあ、健ちゃんの名前から小田にしようか”ということになって、小田という名札をつけてもらっていたんです」

 こうして、順天堂大学病院の特別室の前に“偽名”のネームプレートが出されることになったが、その由来を知る人は少ない。

 律儀なひばりさんは、そのことを健さんに伝えようとした。