「韓国人として感謝する」が一転

 泗川市が慰霊碑の建立地を提供してくれることになり、高名な韓国の彫刻家が慰霊碑のデザインに名乗りを上げた。

 石碑の由来や碑文を紹介した日韓両国語併記の美しいパンフレットもできあがった。これなら観光地としての泗川市のPRにもなる。

 除幕式は、2008年5月10日に行うことが決まった。

『東亜日報』の記事が出てからは、韓国人の誰もが口々に「本来、私たちがすべきことをあなたがしてくださって申し訳ない。韓国人として感謝する」と黒田に話したという。

 黒田は、この石碑建立を「日韓友好の架け橋」にと切実に思っていた。

 泗川市は、3000坪の広大な公園を提供してくれた。

「すべてが想像以上の成果を上げていきました。どんどん話はいい方向に進んでいるように思えたのですが……」

 慰霊碑の除幕式まで2か月を切った'08年3月20日。泗川市役所で黒田は職員からとんでもない申し出を受ける。それは碑文についてだった。

「強制労働や慰安婦問題について触れなければならないし、謝罪の文言が盛り込まれるべきだ。また、靖國に祀られている卓庚鉉を追悼するのも如何なものか」

「何をいまさら」と思い、黒田は反論した。

「これは政治的なことを排し、あくまで人道的な立場で犠牲者を追悼するもの。そのような碑文は私が容認できない」

 すると、今度は記者発表などで配るパンフレットの文言が問題だと言い出した。

 文中の「日本のために」という部分を「日本のせいで」と改めろと、言いがかりのような注文をつけてきた。市には4か月も前に最終稿を渡してあり、特に直しがないということですでに7000部の印刷を終えたところだった。

「これがなければ、ほかに資料がない。泗川市にとっても大切なPRのチャンスであるはずなのに」そう食い下がっても、役人たちは聞く耳を持たなかった。

シュプレヒコールする光復会のメンバーとそれを取り囲む警察隊
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 夢を見てから、すでに17年の月日が流れていた。青年の足跡を求め、日本各地を訪ね、韓国に何度、足を運んだことだろう。黒田の中で「ぷつり」と何かが切れた瞬間だった。

「異様に静かだった。こめかみの細い血管に小さな気泡が1個入ったような感じ。怒りというよりは絶望。どんなに誠意を尽くしても平気で手のひらを返し裏切ってくる人たちを、本当にひどい人たちだと思いました」

 '08年5月8日、忸怩たる思いで釜山の金海空港に到着した黒田は、最悪の事態が巻き起こっていたことを知る。

 2日前に、この石碑建立に反対している左派系政治団体と抗日運動家の末裔で組織された極右組織『光復会』が記者会見を開き、石碑の撤去と除幕式の中止を市長に要求したというのだ。応じなければ、市長に対してリコール運動を展開すると宣言。恐れをなした市長は、なんと「除幕式の中止と石碑の撤去」を発表したのだ。

 そこで、黒田は「反対派」と対峙して話し合いを行った。議論は2時間近くにわたったが、平行線をたどるばかりで結局「決裂」したのだった。