あの青年は光山さんに間違いない

 数年の時が流れ、黒田は旅先で見たテレビのドキュメンタリー番組を見て驚いた。それは、特攻隊の前線基地だった鹿児島の陸軍知覧飛行場近くで食堂を営んでいた『特攻の母』、鳥濱トメさんを取り上げた番組だった。そこで、出撃前夜に朝鮮民謡『アリラン』を歌った光山文博さんのことが紹介されていたのだ。

「番組後半、光山さんのいとこの卓貞愛さんが当時の思い出を語る場面が出てきました。彼の親戚がいることがわかった。遺族がいるのなら、“最後の最後”に彼が私に残した言葉をぜひ伝えなければならない。できることなら彼の朝鮮名を刻んだ慰霊碑も作りたいと思うようになったのです。光山さんだけでなく、戦争で犠牲になった朝鮮半島出身の人たちの御霊はきっと故郷に帰りたいことだろうと。そして同胞たちにこそ弔ってもらいたいに違いないと思ったのです

 2000年2月上旬、黒田は釜山に向かい、卓貞愛さんら親族と対面、不思議な夢の話をし、郷里に慰霊碑を作ってあげたいと伝えた。

 帰国した黒田は、鳥濱トメさんの次女の赤羽礼子さんが、東京で薩摩料理の店を経営していると知り、会いに行った。

 彼女は、子ども時代に光山さんに会っている。あの青年が本当に光山さんなのか。

 黒田は夢で見た青年が、「とても背が高く、胸板のがっしりした体格で、顔の色が黒かったこと。それも日に焼けているのではなく、地黒だったこと」を話した。

 すると、礼子さんは「ああ、光山さんだわ」と小さく叫んだのだった。

光山文博少尉の代表的な写真。戦死後、2階級特進し「大尉」となる
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 あの青年は光山さんに間違いない─こうして確信を持つようになったという。

「みんな“夢のことでしょ?”と言います。でも私にとってはリアルそのものなんですね。この話をするときに『メビウスの輪』という表現をします。ずっと裏だったのに、いきなり表になるでしょう。同じように、夢から始まったことなのに、いつの間にか現実になっていく。特攻隊の人たち、非業の死を遂げた人たちを弔わなきゃいけない、というのは自分のなかで実にリアルな問題になっていったんですよ

 黒田は、仕事の合間を縫って、光山さんの日本での足取りを追跡していった。

 京都の住まい周辺や卒業したとされる立命館中学校、京都薬学専門学校……。

 さらに、鹿児島県知覧で「光山文博」の名前を、沖縄の「平和の礎」で「卓庚鉉」の名前を発見する。

 '03年9月、卓家の本家筋がソウルにいると知り卓家直系の子孫に会いに行った。ところが、その男性は光山さんの故郷、「泗川市西浦に友人の土地があるから買わないか」と法外な金額で持ちかけてきた。

 そのような胡散臭い話に乗れないと判断した黒田は、今度は石碑建立の地所を求めて泗川市の役場を訪ね事情を説明した。役場の人にしてみれば初めて聞く話だ。それどころか、60年以上も前の併合時代のことなど思いもせずに日々の暮らしを送ってきたに違いない。慰霊碑の実現ははるか遠くに思えていた。

 しかし、あるときから「潮目」が変わってゆく。

 '07年8月、黒田の活動を紹介する記事が日本の新聞に掲載されると、予想を超える寄付などの反響があった。

 また、韓国の新聞『東亜日報』でも黒田の活動を紹介する大きな記事が掲載された。好意的な論調の内容に黒田は胸をなでおろした。

 ここから話がどんどん大きくなってゆく。