私は10年ほど前、アフリカ系アメリカ人の父と日本人の母を持つ日本人女性と付き合っていたことがある。彼女は日本で生まれ育ったにもかかわらず、褐色の肌やカールした髪の毛、その他の身体的な特徴から、私と同じように非日本人として明らかに外人扱いされていたのだった。

 しかし彼女は外国人ではなかった。

 彼女は顕著な成功を収めた日本人経営者でもあり、自信満々の態度を取るだけの理由が十分にあった。

 だが、そうではなかったのだ。

自らを守るためにした「人種的コスプレ」

 彼女は私に対し、正直にこう打ち明けた。彼女が私にひかれた理由は私の“黒人っぽい”部分であり、彼女自身の中にあるそうした黒人の側面を再び呼び起こす欲求だったのだと。それほどまでに、彼女は日本に浸り切っていた。2人の間のそうした状況は、しばらくの間はうまくいっていた。

 そんなある日のこと。待ち合わせに現れた彼女は、ストレートパーマをかけた髪はシルクのようで、美しい褐色の肌はパウダーをまぶして淡い色合いになっていた。その外見は、日清のあの動画に登場していた大坂なおみと、大きく違わないものだった。私は仰天してしまった。

「いったい、どういうことなのか……」

 彼女は私に対し、私が呼び覚ました彼女の“黒人性”(彼女の父親は彼女の母親と離別してアメリカに戻っており、父親に置いていかれた彼女は、その人生のほとんどを日本に深く浸って過ごした)は、自分の得意客にとっては逆効果であったと述べた。実際、彼女はいくつかのクライアントを失った。そして、いくつかの有望なクライアントも、彼女のライバル社に取られてしまった。

 それゆえ、彼女は自らの生活を守るために、彼女が皮肉を込めて「人種的なコスプレ」と呼ぶ行為を行わなければならなかったのだ。これはひどく私を悲しませた。涙が出そうになった。それはこの種の出来事を以前に経験したことがないからではない。私はアメリカ人だ。こんなことは当然、何度も経験してきている。

 このレベルの屈辱による同一化は、アメリカでもかつてはありきたりのことだった。今でも「民族的な」見かけは攻撃を受ける。例えば今年初めには、ある少年がレスリングの試合に出場するためにドレッドヘアを切ることを余儀なくされている。