大家さん亡き今も続く葛藤

 矢部が抱いていた大家さんへの思い。それは、親戚のような恋人のような親友のようなものであり、そのどれでもないのかもしれない。木下さんが推察する。

「大家さんを独占したい、みたいな気持ちがあったんじゃないかなぁ。実は僕、近所に住んでいたのに大家さんに紹介されたことがないんです。後輩芸人のことは紹介していたようだし、僕も紹介されてもおかしくない間柄なんですけどね。僕は、紹介された人と仲介者以上に仲よくなっちゃうことがよくあって、それを彼もよく知っている。だからあえて紹介しなかったのかなぁって」

 武政さんも、次のように振り返る。

「連載の途中、作品中の矢部さんの髪の色が急に薄くなったときがあったんです。“あれ?”と思って尋ねたら、忙しくて髪の毛を塗る作業を手抜きしてしまったとのことでした。でも、どんなに多忙でも矢部さんは大家さんの顔の輪郭や服装にはとてもこだわっていました。自分のことはどうでもよくても、大家さんのことは少しでもかわいく見せたいという気持ちがあったのでしょう」

 大家さんは、もう家に戻れないことを予感していたのだろうか。亡くなる少し前、家を処分することを決断し、矢部は引っ越すことになった。

「新居を探すとき、不動産屋さんに“大家さんは同じ建物に住んでいて、とてもいい方です”と言われた物件は、避けてしまったんです。大家さんとの距離感が近くないほうがいいなって……」

 引っ越してからも、あの家の前を通ることがあるという矢部。『大家さんと僕』は完結し、今後、大家さんのことを描く予定はない。しかし、今も、大家さんとの思い出は彼の中で輝き続けており、大家さんの魅力は、作品の中で生き続けている。

『大家さんと僕』の大ヒットを受け、矢部がメディアに登場する回数は飛躍的に増えた。漫画をはじめエッセイやイラストの仕事なども次々と舞い込んでいる。しかし、本人に浮かれる様子はない。

「普通なら調子に乗るところでは?」とたたみかけると、「思いっきり調子に乗ってますよ」と、にやりと笑うが、それが冗談にすぎないことを周囲は知っている。冨田さんが証言する。

「作品のヒットなんてなかったんじゃないかっていうぐらい言葉も態度も変わらないんです。矢部さんは欲がない人。お金のためとかスターになりたいとか、そういうことを目指しているんじゃないと思う」

 順風満帆と思われた矢先、ある“事件”が起きる。『カラテカ』の相方である入江が、会社を通さず直営業を行っていた相手が振り込め詐欺グループだったことが発覚。契約を解除されたのだ。そのときの心境を尋ねると、矢部は黙り込んだ。しばらく無言の時間が流れ、こちらが「やはりショックだったのでは?」と問いかけると、必死に言葉を絞り出す。

カラテカとしてデビュー後、ライブのチラシ用に撮影された2人の写真
カラテカとしてデビュー後、ライブのチラシ用に撮影された2人の写真
【写真】父である絵本作家のやべみつのりさん、高校生時代の入江慎也と

「まだ自分の中で整理できていない部分もあるんですが……。“ショック”とは言いたくない。ショックって言っちゃうと他人事みたいになるから……」