育友会からの延長で、大徳小学校では今、長井さんらが「炎鵬ボード」を作って、生徒たちとみんなで応援している。「子どもたちは小柄な炎鵬が勝つことにやっぱり励まされる」んだそう。「それ、炎鵬は知ってるんですか?」と聞いたら、「去年、テレビの取材で大徳小学校を訪ねてくれ、炎鵬ボードも見てもらえました」という。そこに飾る写真などは、現在は東京在住の板野さんがあちこちに出向いて撮ったりもする。

みんなで見守り、みんなで応援

母校である大徳小学校に設けられた「炎鵬ボード」。現校長と長井るみさん、そして炎鵬関
【写真】小学生時代の可愛すぎる炎鵬

「子どもたちが小学生のころ、地域は新興住宅地でした。もともと住んでいた家、転勤族、新たに家を建てて移り住んできた人たち。うちは転勤族でしたが、そういう人たちが親も子どもたちもみんな仲よくやっていました。ちょうど大阪の池田小学校の事件があって、防犯パトロールを私たち育友会でやっていて、みんなの子どもを一緒に見守って。炎鵬だけじゃなく、子どもたちが成長してからも、あの子はこうした、ああしたって連絡をとりあってきました。炎鵬が角界入りしたときに、育友会だったメンバーで『炎鵬晃と由美ちゃんを応援する会』というLINEグループを始めたんですよ。だから炎鵬は『地域の子』という気持ちが強いんです。みんなで見守り、応援しています」(板野さん)

 おすもうさんは地元の人が応援してくれることは多いが、なるほど、こんな気持ちがこもっているのか。小さいころから炎鵬を見守り続けてきたお母さんたちは連携し、相撲道に並んで走ってきた。身体の小さな炎鵬は土俵の上でひとりで戦うけれど、決してひとりきりじゃない。その後ろには大勢の人がいて、背中を押しているのだ。

 それにしても、子どものころの炎鵬はどんなだったんだろう? 一緒に応援に来ていた、炎鵬が大徳小学校6年生のときの担任の先生だった、指江柚三子さんにうかがった。

「クラスではにぎやかで元気、ムードメーカー的な子でしたね。モテたか? まだ小学6年生でしたからねぇ。それより、みんなの人気者という感じでした。場を盛り上げるのが上手で、言葉にセンスがある。今と同じです。

 当時、大徳小は英語特区ということで英語の授業をやっていたんですが、ある日、友哉が『Japanって日本のことやったんやー!』と大きな声で突然、驚いたように言って、みんなで『そんなことも知らんかったんか!』と大爆笑したことがあります。

 相撲をやっていたのはみんな知っていて、実は私、腕相撲が強くてあまり負けたことがなかったんですが、友哉とやったら負けてしまいました。組んだ瞬間、あ、強いな、とわかりました。当時から運動は何でもできましたね。ただ給食はあまり食べなかった。それも今と同じなんでしょうか? 周囲に『もっと食べや』と言われていました。私はもう退職していますが、友哉は自慢の教え子で、友哉のいたクラスはとても雰囲気がよくて今でもよく覚えているんですよ」

 へぇ、そうなんですか! と、当時の可愛い友哉少年の姿を思い浮かべる。さらにお母さんにうかがうと、

「いろんなことに興味津々で好奇心の塊みたいな子でした。遊ぶのが上手で、おもちゃがなくてもスーパーのビニール袋をお尻の下に敷いて芝生をすべりおりたり、アルミホイルをボールにしたり、身近なもので工夫して遊びを作っていました。手先が器用で、今も自分で眉毛を整えたり、兄の文哉のもみあげをカットしてあげたりしてて、将来は美容師に? と考えていたこともあるみたい」と意外なことを教えてくれた。