“小島家の失敗作”とまで言われた

 1972年7月、商社マンだった父親の仕事の関係で、赴任先のオーストラリアのパースで生まれ、3歳まで育った。両親と姉の4人家族だ。

 1度、日本に戻ったが、小学1年生の9月には再びシンガポールへ赴任。転校先は当時世界最大の日本人学校だった。

シンガポールに住んでいた小学1年生のころ
シンガポールに住んでいた小学1年生のころ
【写真】小島慶子さんの美人すぎる幼少時代と女子アナ時代

「企業や役職という親のヒエラルキーがそのまま子ども社会のランクづけに反映されていました。新入りはいじめられた。転勤族ばかりで、長くいる子は牢名主のようにいばっていました(笑)」

 住まいは、住宅地の社宅。ブーゲンビリアが咲き誇り、朝起きると熱帯の鳥の声が聞こえ、緑が眩しかった。

 翌年には香港に再び転居し、小学3年生で日本へ。

 帰国子女の小島さんは、学校では浮いた存在だったが、塾に通うようになってから居場所ができたように思えた。

 そして中学受験を突破して学習院女子中・高等科に入学。

「そこには、自分よりはるかに勉強のできる子がたくさんいて、とんでもないお金持ちの子もいる。自分は井の中の蛙なんだと気づきました。友達との関係にも悩み、若い男性教師にも反抗する問題生徒でどんどん孤立していきました」

 幼いときから自分の性格には自信が持てなかった。

「ひねくれ者とか育てにくいとか癇が強いとかわがままとか、ずっと言われ続けてきた。姉からは“小島家の失敗作”とまで言われました(笑)。だから、ずっと自分を責めてきました」

 授業中に誰かのシャープペンをカチカチする音が聞こえると「誰だろう?」と思って気になってキョロキョロしたり、喋っている人が何かの小動物に似ていると気がつくと誰かに言いたくてしかたなくなったり……。周囲から“変な子”と煙たがられていた。

 大人になってから、それはADHD(発達障害)の特徴だということがわかるのだが、この当時は、「なんて生きづらいんだろう」と思うほかなかった。

 唯一の慰めは、姉の影響で聴き始めた深夜のラジオ。午後10時からの三宅裕司の『ヤングパラダイス』に始まり、『オールナイトニッポン』の1部を聴いて、2部は録音して通学途中に聴くという毎日を過ごした。

 学校だけでなく、家でも浮いた存在だったという小島さん。特に母親の過干渉には長年、悩まされることになる。

 中学3年のとき、9歳年上の姉は一流大卒の銀行マンと帝国ホテルで結婚式を挙げた。幸せを絵に描いたような結婚式で誇らしげだった母の顔が忘れられない。

「“私も姉みたいに幸せになれるかな”と思い、同時にプレッシャーも感じていました」

─ママはこれから私にいろいろな思い入れを注ぎ込むだろう。もう逃げ場はない─

 両親は「結婚相手はちゃんとした会社に勤める人を選ばないとダメ」という考えだった。小島さん自身もその期待に応えなきゃいけないと、当時は思い込んでいた。