生粋のひねくれもの

 1944年、ここ千葉県八街市で生まれ、代々、農業を営む両親のもと、4人きょうだいの長男として育った。かつては本家と分家が隣接していて、浅野さんの実家は分家だったという。

「当時は本家も分家も一緒に畑をやってたんで、子どものころから大勢の大人にまじって、手伝いをしてました。長男の使命感? そんなんじゃないな。楽しかったから」

 そう話すと、身振り手振りを交えて振り返る。

「収穫した麦を乾燥させるときは、こうやって積み上げていくの。高くなると俺がてっぺんに上ってさ、大人から麦を受け取るわけ。ある程度、高く積むと、はしごをかけてもらって下りてくる。これが楽しくてね。大人もほめてくれるし、豚もおだてりゃ木に登るじゃないけど、俺は麦に登ったわけ」

枯れたように見える外側の黒い葉をむいていくと、みずみずしく紫色が鮮やかなプレコーチェが! 撮影/齋藤周造
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 家業を手伝う一方、小学校では勉強もよくできたというが、その理由が“ひねくれもの”の浅野さんらしい。

「俺ね、友達が集まって遊んでても、輪の中に入らず、じっと観察してるような子どもだったの。めんこをしてたら、どうやったら勝てるのか、考えるわけ。なんでだ? どうしてだ? って疑問を持つことが、俺の遊びだったから。同じように、授業中も先生の癖を観察して、テストに出るところを当てちゃう。だから、勉強は嫌いだったけど、成績はよかった」

 嫌いな勉強も、まじめに取り組んだのは、本家の祖父・鷲太郎さんの影響もあった。

「小さいころから大のおじいちゃん子でね。学校から帰ると、毎日、じいちゃんのところに顔を出してた。そうすると、必ず聞かれるの。『今日は何の勉強したんだ?』って。ちゃんと答えたいから、授業はまじめに聞いてたわけ」

 名は体を表すというが、一族を束ねる鷲太郎さんは、威厳があり、農家でありながら日経新聞を愛読するようなタイプ。知識も豊富で、浅野さんは子ども心に尊敬していた。

「だから、じいちゃんから言われたことは、しみついてます。人が頭を下げて、ものを頼んできたら、できる限り力になれって言葉とか」

 ひねくれものでも、友達は多かった。それは、祖父の教えを守ってきたからだろう。

 地元の八街市立二州中学校を卒業後は、教師のすすめで農業高校に進学した。しかし、卒業を待たずして、退学の道を選んでいる。

「俺、知りたいことは学びたいけど、強制的な勉強は大嫌い(笑)。本当はもっと早くやめたかったけど、高3の新学期に修学旅行があるっていうんで、関西旅行を楽しんで、帰ってきた翌日に退学届を出したんだ」

 わが道を貫く性分は、両親も祖父もお見通し。黙って退学を許したという。