突然の別れ、そしてラストラン

 美代子は3か月休むとケガを押してレースに出場。「引退」を回避すると年明け2月のレースから本格復帰するためにハードな練習にも打ち込んだ。さらに、迎えた新年の年賀状にも「2020年の東京オリンピックまでは頑張る」とメッセージを添え再起に懸けていた。

 しかし復帰を目の前にした2017年2月、思いもよらぬ悲劇が美代子を待ち受けていた。

「次女の結婚が決まり、両家の顔合わせを明日に控えた土曜日のことでした。練習から戻ると家の留守番電話に『主人危篤』のメッセージが何件も入っていました」

 この日、夫・繁男さんは羽田空港近くの天空橋のあたりまで自転車で出かけ、鳥居の袂でひと休みしていたところで倒れ、救急車で病院に運び込まれたという。

「主人は毎朝、血圧を測りノートにつけるなど、健康にはとても気を遣っていました。ですから倒れたと言われてもまったく現実感がありませんでした」

 しかし、夫・繁男さんは翌日の昼過ぎ、意識が戻ることもなく息を引き取る。

「死因すらわからず亡くなってしまった。人が死ぬのはこんなにあっけないんだ」

 現実感がないから、淡々と事実を受け入れるしかなかった美代子。その思いは娘たちも同じだった。しかし夫を亡くしたことで美代子の現役復帰に兄・壽彦が強く反対を唱える。

「夫が亡くなり、もし私がまた事故にでもあって亡くなったら、子どもたちはどうするんだと、葬儀の日に言われました」

 夫・繁男さんが亡くなったことで急に死を身近に感じるようになった娘たちからも「引退」してほしいと言われ、美代子の心は揺らいだ。

「引き際が大切。退く勇気を持ってほしい。このままやって引退に追い込まれるより、今なら山口百恵のように華々しくやめられると私は美代子に話しました」(兄・壽彦さん)

 確かに練習ができないまま、復帰して勝てるほど競輪は甘くはない。

常に新たなことにチャレンジし続けているが、それを何でもないことのように笑顔で話す高松さん 撮影/伊藤和幸
常に新たなことにチャレンジし続けているが、それを何でもないことのように笑顔で話す高松さん 撮影/伊藤和幸
【写真】真っ黒に日焼けした高松さんの学生時代

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 2017年3月26日。千葉競輪場で行われた第5レース。大勢の仲間たち、友人、家族の見守る中、美代子は54歳のラストランを飾った。

「くしくも私の出走時間は、夫が息を引き取った12時41分。夫も見ていてくれたのかもしれませんね」

 生涯成績は323戦してわずか3勝。だが、この勝ち星こそ美代子にとっては遅れてやってきた青春の勲章に違いない。スタンドからも、「夢をありがとう」と叫ぶファンの声がこだました。

「身体がボロボロになってやめる選手もいる中、無事に終われてよかった。勝負師の顔が今ではすっかり優しくなりました」(同期・藍野元選手)

 しかし美代子は、引退の翌々月から選手会の指導訓練課で競輪選手の新人研修を取り仕切るなど精力的に仕事に励んでいる。

「産休問題など、ガールズケイリン特有の課題もあり、今も選手にとってはなくてはならない存在。生徒会長だったころのキャプテンシーをますます発揮してほしいですね」(同期・篠崎選手)

 2020年まで現役でいることはできなかったけれど、今も遅れてやってきた青春の真っただ中に美代子はいる。


取材・文/島右近(しまうこん) 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。