北野武監督の言葉に一喜一憂

 当初は芸能界入りを反対していた両親も、息子の活躍を陰ながら応援するようになっていた。

「父からは、“作品を見たぞ”と直接言われたことはなかった。でも、“あんたが出演したドラマを、父さんが夜中に1人で見てたよ”って母から聞いて……」

寺島進、父親と自宅にて
寺島進、父親と自宅にて
【写真】寺島進、ボンタン姿の高校時代

 このころ、寺島は初舞台を経験するなど、活動の幅を広げつつあった。“斬られ役”とはひと味もふた味もちがう役者としての表現があることを知り、新しい世界を見た気がしたという。

 時を同じくして、最愛の父が亡くなった。遺影を前に浮かんだのは、かつて父がくれた“好きな道に進みなさい”という言葉─。

「後悔のないように生きよう、自分が目指す道に進もう。そう考えたとき、やはり本当にやりたいのは、殺陣師ではなく役者なんだとはっきり気づいたんです」

 役者をやりたい。その意志を確固たるものにしたのが、北野武監督の存在だった。当時、北野監督は、“芸人・ビートたけし”としての枠を超え、映画監督に挑戦しようとしていた。寺島は、北野監督が初めてメガホンをとった『その男、凶暴につき』のオーディションに参加し、ヤクザの手下役をつかみ取る。

「監督のアイデアで、現場でどんどん脚本が変わっていったりするのがすごく刺激的でね。すっかり北野監督のファンになっていました。

 なにより、北野監督は、大スターから俺たちみたいな若手まで、同じ態度で分け隔てなく接してくれた。俺が緊張していたら、気さくに話しかけて和ませてくれたのは、今でも忘れられないですね

 この少し前に父を失ったこと、そして、憧れていた松田優作さんが亡くなったことも、北野監督への憧れをいっそう強くさせたのかもしれない。

「失意の中で出会ったのが北野監督だったから、亡くした2人の生まれ変わりのように感じていたんだろうね。その北野監督が映画に出演させてくれて、役者になれるかもしれない希望を与えてくれた。だから、中途半端なことはしたくないって思ったんです」

 剣友会に所属したままでは、アクションがメインだと思われてしまう。そう考えた寺島は剣友会をやめ、フリーランスに転じる。人脈と経験がものをいう芸能界において、駆け出しの役者がフリーランスで活動するのは、無謀な挑戦ともいえる。それでも、寺島はセリフや演技で勝負する役者を目指すことにこだわった。

「アクションメインの仕事はすべて断った。生活は苦しかったけど、断らないといつまでも“斬られ役”のイメージが消えないと思ったから。連日、制作会社にプロフィールのファイルを持って行って自分を売り込んでいました」

 一方で、寺島が何よりも待ち焦がれていたのが、北野監督からのオファーだった。『その男、凶暴につき』の打ち上げで、「次に俺が映画を撮ることがあったら、絶対に呼ぶからよ」と言われていたからだ。

 しかし、2作目のとき、寺島には声がかからなかった。いてもたってもいられなくなり、わざわざ映画のスタッフに電話で確認したという。

「そうしたら“1作目とは異なるキャスティングでやるから、前回出演した人は出られない”と聞いて。それならしかたないと思いながら2作目を映画館に見に行ったら出ていたんだよ! 前作のキャストが。“もう監督は俺のことなんて忘れちゃったのかな”って落ち込んだなぁ。だから、3作目でオファーが来たときは飛び上がらんばかりでした

 その3作目が『あの夏、いちばん静かな海。』だ。この撮影のとき、監督がかけてくれた言葉に当時27歳だった寺島の背筋は伸びた。

“あんちゃん、まだ売れてないかもしれないけれど、役者って仕事は一生続けていきなよ。役者は、死ぬまで現役でいられる。今売れてなくても20年後、30年後に売れて死ぬ間際に天下取ったら、あんちゃんの人生、勝ちだからよ”って言ってくれてね。この言葉がすごく大きな勇気を与えてくれた。“俺、まだ売れてないけど、一生、役者を続けていいんだ”って思えて、覚悟が決まったんです」