ヤンチャでひょうきんな畳店の息子が役者を志した。半端を嫌う行動力で、つかみ取ってきたチャンス。ヤクザ映画の強面から、人情派の駐在刑事役まで、役者1本で突き進んできた寺島の原動力は、惚れた男たちの大きな背中だった。

「18歳で初めて成城に降り立ったときは、本当に驚いたなぁ。同じ東京にこんなにおしゃれな街があるなんてね。映画スターが豪邸の前で車を洗っていたりして。“あぁ、ここは成功者の街なんだあぁ”って気がしたんですよね」

自分の好きな道って、何だろう

 寺島進(56)は、俳優としての第一歩を踏み出した街の思い出を懐かしむように語り始めた。江東区の下町・深川で生まれ育った彼は、高校卒業後、三船敏郎が成城に創設した『三船芸術学院』に入学。それが、今日まで約40年にわたって続く役者人生の始まりだった。

 北野武監督作品をはじめ、『踊る大捜査線』シリーズや、『アンフェア』などのヒット作で、確かな演技力によって作品を盛り上げてきた“いぶし銀”の俳優。大河ドラマ『真田丸』で演じた真田家の家臣・出浦昌相の姿が脳裏に焼きついている人も多いだろう。本人いわく、“いちばんのファン”は、自身の母親なのだという。

「おふくろは、いちばん的確な評論家でもあって“このドラマでは顔が疲れていた”とか、“セリフにキレがない”ってズバリ言い当ててくる。この前なんて、“クイズ番組には出ないでよ。あんたバカなんだから恥ずかしいわよ”だって(笑)。もう50代なのに、おふくろにとっては“深川を駆けまわっていた少年”のままなんだろうね」

 実は、彼が俳優の仕事だけで食べていけるようになったのは、30代後半。それまでは、アルバイトを掛け持ちしてなんとか食いつないできた。

 “芸能界で成功するには、実力だけでなく運も必要”とよく言われる。ただ、寺島の場合は、運が天から降ってくるのを待つのではなく、自ら先回りして動き、運をつかみに行く人生だった。

「だって自分から動かないと、運ってやってこないと思うから、まず行動を起こすことが大事。その一方で、決して自分の力だけでここまでやってこれたわけじゃない。今も、多くの人に支えられて浮かび上がらせてもらっているってことを常に感じています」

 日本を代表する名バイプレーヤーは、この世界でどのようにチャンスをつかみ取ってきたのか。その半生には、己の気持ちにまっすぐ向き合う姿勢と、憧れの人への深い敬愛の念があった。

 寺島が産声をあげたのは、東京オリンピックを1年後に控えた'63年。深川で畳店を営む両親のもと、3人兄弟の次男として育った。

 中学生で早くも髪型をリーゼントに変え、高校生になると制服をボンタンにするなど“ちょいワルなおしゃれ”にも目覚めていったそうだ。

寺島進、ボンタン姿の高校時代
寺島進、ボンタン姿の高校時代

「勉強が嫌いで、おふくろには“勉強しなさい”ってよく怒られていたなぁ。両親から“店を継いでほしい”と言われたことは1度もなかった。もしかしたら、心の奥ではそういう気持ちがあったのかもしれないけど、当時、すでに畳店は斜陽産業でさ。親父は“お前の好きな道に進めばいい”と言ってくれていたんです」

 自分の好きな道って何なのだろう─。ヒントを与えてくれたのが、近所のおじさんに言われた「進は目立ちたがり屋だから、人前に出るような仕事が向いているんじゃない?」という言葉だった。

「目立ちたがり屋っていっても、同級生とバンド組んで演奏したり、学校や身内の宴会でピンク・レディーのモノマネをするぐらいのレベルだったんだけどね。でも、たしかに俺、人を楽しませることが好きなんだなって思ってさ」

 そんなとき、三船芸術学院のパンフレットを見て、興味がわいた。三船芸術学院は、三船プロの俳優養成所。新劇や殺陣などさまざまなカリキュラムを学ぶことができる。

「いくら好きな道といっても、まさか俳優の養成所に行くとは思わなかったらしく、両親は猛反対。それもあって、授業料は自分で払って、2年間まじめに通った。土木作業員や歌舞伎町のクラブなんかでアルバイトして学費を稼いでね」