目次
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ー 両親と連絡が取れず、眠れない日々を過ごす
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ー ふるさとは母親のような存在

 白砂青松の美しい海岸線を、高さ18メートルの大津波が襲った。東日本大震災で、1700人以上もの人々が犠牲となった岩手県陸前高田市。あれから15年、俳優の村上弘明さんは、この節目を静かに受け止めている。

「壊滅的な町の様子も、訪れた避難所で交わした会話も、まるで昨日のことのように覚えています。でも、現実では震災後に生まれた子どもたちがもう15歳。記憶を次の世代にどう受け継ぐか、真剣に考えなければいけない段階にきています」

両親と連絡が取れず、眠れない日々を過ごす

 陸前高田市の広田町で生まれ育った。町全体が三方を海に囲まれた半島で、住民は古くから漁業とともに生きてきた。父親は自転車店を営みながらワカメの養殖にも携わり、春先の収穫期には一家総出で海に出た。

「地震のあった3月から4月にかけてはいちばん忙しい刈り入れどき。ワカメの品質を保つため、暖かくなって水温が上がる前にすべて収穫する必要があるんです」

 猫の手も借りたい忙しさの中、村上さん自身も中学生になるころから海に出て、収穫を手伝った。まさに、海とともにある生活を身体に刻み込んできた。

「広田町は漁師町ですから、津波の教訓が代々受け継がれていてほとんどの民家や道路は高台にあります。大震災で被害にあったのは、主に海沿いにある作業場や倉庫でした」

 2011年3月11日、村上さんは午後、妻の運転する車で娘の卒業パーティーに向かう途中のこと。急に運転が荒くなったなと思った瞬間、地震だと気づく。

「ビルが振り子のように揺れているのを見て、これはただ事じゃない、と」

 当初は首都直下地震を疑ったが、ラジオから流れてきたニュースで震源が三陸沖だとわかる。すぐに両親に電話をかけたが、何度かけてもつながらない。連絡が取れないまま、4日が過ぎた。

「気が気じゃなくて、まともに眠れませんでした。疲れて目を閉じたら、何度も『地震なんてなかった、大丈夫だった』という短い夢を見て、すぐに目が覚める。夢かうつつか、その繰り返しでした」

 ようやく母親の声が聞けたのは4日後。陸前高田市内の避難所に設置された特設の電話からかけてきた。

「何も心配しなくていい、って、こちらが拍子抜けするくらい元気な声でね。夫婦で買い物に出た先で地震にあい、帰る途中でひどい渋滞に巻き込まれたそうなんです。自宅に戻れなくなり、近隣の知人の家に身を寄せさせてもらった、とのことでした」