「あのころよりはずっとマシ」

 機能不全家族に育ち、あまりにひどい暴力に耐えきれなくなった私は、就職と同時に家から逃げ出してひとり暮らしを始めた。薄給ではあったが、会社の社員寮としてアパートに住むことができ、当時、無一文で、一刻も早く安全な場所に身を置きたかった私には好都合であったため、内定をもらってからすぐに入社を決意した。 

 しかしながらその会社はブラック企業で、劣悪な労働環境ゆえに社員が居着かず、先輩社員いわく「新卒で入った15人のうち、翌年に一人か二人残っていればいいほう」だという。社員が毎日遅くまでサービス残業をしなければならないほど、慢性的な人手不足に陥っていた。 

 休日出勤を強制されるにもかかわらず手当は出ないし、タイムカードは存在しないし、経理部に理由を尋ねても明確な答えはもらえなかったが、“有給”を取ろうものなら、ただでさえ少ない給料から1日あたり謎の5000円を差し引かれた。「誰かが上層部の機嫌を損ねて左遷された」という話を聞くのも、決してめずらしいことではない。 

 当時、毎月の給与から家賃の自己負担額や諸々を差し引かれた手取り額は11万円ほど。そこから奨学金の返済、金銭的に困窮している実家への仕送り、生活費を引けば手元にはほとんど残らない。まさにギリギリの生活だった。

 毎日、激務に追われて疲弊していたが、それでも私に会社を辞める選択肢はなかった。転職するだけの時間的余裕もないうえ、仕事を辞めてしまえば住居を失う。

 住居を失えば路上生活を送るか、再び“地獄”に戻って、殴る蹴るの暴力を受ける毎日を送るかしかない。経済的に自立できるだけの蓄えがない以上は、文字どおり「生命線」であるこの仕事を続けるしかないのだ。 

 しかしそんな生命線は、予想だにしなかった事件によって安易に絶たれてしまった。

 会長の息子であり、既婚者の男性役員からの性的な誘いを断ったことで不興を買ってしまい、社内で執拗な嫌がらせのターゲットにされたのだ。

 役員から直に「吉川には徹底的に負担をかけろ」と命じられた部署長は、私に「ごめんね、そういうことだから」とだけ断って、ほかの社員に回すはずの業務をすべて私に回し始めた。

 嫌がらせをしていた張本人は、夜遅くまで業務に追い詰められる私を見にきては時折満足そうにニヤついていたが、もはや私に戦う気力は残されていなかった。 

 不運なことに、私はこのころ不眠症にも悩まされていた。毎晩、家具も何もない部屋に帰り、薄っぺらい布団に入ると、必ず殴られていたときの記憶がフラッシュバックする。脳内に当時の光景や怒鳴り声、恐怖の感情が鮮明に再現され、涙が止まらなくなる。眠りにつくのはいつも泣き疲れた朝4時ごろで、日によってはまったく眠れないまま仕事へ向かうこともあった。

 そんな日々が続いて数か月経ったころ。朝、通勤ラッシュで人が溢れかえる北千住駅のホームで電車を待っていると、突然、激しい吐き気とめまいに襲われた。しばらく回復を待ってみても足が一歩も動かない。この状態で、すし詰めの満員電車に耐える自信は微塵もなく、結局、この日は会社に行くことができなかった。

 この日を境に急激に身体を壊した私は、これまでどおりの激務をこなせる身体ではなくなってしまった。業務の負担軽減を申し出ても、役員の目が光っているなかでは誰にも取り合ってもらえない。休職制度はまったくと言っていいほど機能しておらず、申請に必要な書類すら用意されていない。 

 こうして、私は会社を退職せざるを得なくなったのだ。