「ありがとう」と言って死にたいじゃない

 だが、行動力のある滝野さんなら、すぐ実家に戻ってもおかしくない。なぜ別れなかったのかと聞くと、驚くような事実をサラリと口にした。

「実はね、父は外にも子どもがいたんです。私が思春期のころ、母は荒れて、うちを出る出ると大騒ぎしていました。だから、私は結婚して子どもができたら、絶対に離婚はしない。子どもに悲しい思いはさせないと固く心に誓っていたんです」

「私は自分でラッキー、ラッキーと思って動くから、どんどんラッキーなことがやって来る!!」とラッキーポーズを決める滝野さん
【写真】リモート取材でオレンジ色のウイッグをかぶった、おちゃめな滝野さん

 それにね、と続けた理由は、自ら頑固者だという滝野さんらしい。

「私は白か黒かで、真ん中がないの。こうと決めたら、命がけなのよ。我慢すると決めたから、とことん我慢したんです」

 転機は、50歳のとき。最愛の父の死だった─。

 86歳で亡くなる半年前に寝たきりになり、「長生きしたくないからもう食べない」「俺の人生は無だった」など弱音を吐いた。それまでのバイタリティーあふれる姿は見る影もなくなり、滝野さんは衝撃を受けた。

「私、自分が死ぬ間際に絶対に同じことやるよと思って。“子どもたちのために犠牲になった”。そう言うに違いない。それは絶対イヤ! 楽しい人生だった。ありがとうと言って死にたいじゃない」

 滝野さんが選んだのは離婚ではなく別居だった。決めたら行動は早い。'84年、52歳でアパートを借りて、ひとり暮らしを始めた。

 そのとき、長女は社会人、長男も大学を出て就職したばかりだった。

 長男の靖さん(57)は母親が家を出ると聞いても、特に反対はしなかったそうだ。

「普通にビックリはしましたけど、父親に問題があるのは感じていたので、やっぱりというか。母には小さいころから、“あなたの人生はあなたのもの”とずっと言われてきたし、進学も“行きたいところに行きなさい”という感じで育てられましたから。母が何をしても、それは母の人生なので、僕がどうこう言うことではないと思いました」

 だが、一家の主婦がいなくなったら、炊事、洗濯などその日から困るのではないか。それも、靖さんは大した問題ではなかったという。

「外食とかしましたし、何とかなりました。父親は不満に思っていたかもしれませんが、プライドがあって口には出しませんでしたね」

 滝野さんは父の会社の東京営業所で長年、週2日ほど働いていた。父は戦後、フィルム現像の機械メーカーを立ち上げ、滝野さんは機械の取り扱い説明書の翻訳を担当していた。夫が定年退職してからは、「女は家にいるものだ」という反対を押し切り、フルタイムで働いていた。そのため、急なひとり暮らしでも経済的な心配はなかった。

 自分を抑え続けた27年間を経て、やっとつかんだ自由な日々─。

 解放感よりも、むしろ焦りのほうが大きかったという。

「何もしなかったら、これまでと同じ……」