「行けないところなんてないですよ」

 藁にもすがる思いで、君江さんは、別のリハビリ専門病院に入院した。その際、君江さんは夫に、ネットで調べものができるよう新しい携帯電話を買ってきてもらった。

「ずっとベッドの中で、その携帯電話を握りしめて、調べ続けていました。きっと誰か、海外でも国内でも、歩けるようにしてくれる名医がいるんじゃないかと思ってするとアメリカには、『プロジェクト・ウォーク』という脊髄損傷の患者のトレーニングを専門にしている施設があると知ったんです

 さらに見つけた情報に君江さんは目を輝かせた。なんと「プロジェクト・ウォーク」で資格を取得した日本人トレーナーが神奈川県厚木市でジムをオープンさせたというのだ。代表は渡辺淳さんという若い男性だった

 渡辺淳さんは、19歳のときにアメリカに留学。在学中、日本にいる親友が事故で脊髄損傷になってしまったことから、カリフォルニア州サンディエゴにある脊髄損傷者専門ジムの「プロジェクト・ウォーク」に出会う。

 そこで日本の常識ではあきらめざるをえない患者が、明るく楽しくトレーニングに励み、まったく希望を失っていない姿に衝撃を受けた親友を救いたい一心で卒業後、迷わず「プロジェクト・ウォーク」の門をたたき、外国人で初めて入社を許された

 そこで多くの当事者に触れ、神経組織の回復・再生のノウハウを身につけた淳さんは日本での開業を許され、'07年3月に晴れて日本初の脊髄損傷専門トレーニングジム「ジェイ・ワークアウト」を設立した。くしくも、君江さんが爆発事故に遭遇した同じ年だった。

 '07年9月、君江さんたちは「ジェイ・ワークアウト」へ初めて見学に行った。大柄でがっしりとしたレスラーみたいな淳さんが迎えてくれ、笑顔でこう言った。

脊髄損傷は治ります。回復しますよ回復に限界はない。もちろん麻痺の具合は個人差があるし、事故によっても違う。ただ(トレーニングを)やった分の回復は見込めるし、それで日常生活に復帰できるかどうかは別として、必ず回復します

 最初は週1回、そのうち週2~3回と、君江さんは叔母の運転で世田谷から厚木のジムまでトレーニングに通うようになった。

「ジェイ・ワークアウト」に通い始めたころ。君江さんには2人のトレーナーがついて訓練を重ねた
「ジェイ・ワークアウト」に通い始めたころ。君江さんには2人のトレーナーがついて訓練を重ねた
【写真】親友の大桐さんと制服姿でピース、女子高生時代の君江さん

 あまりの外出の頻度に、入院していたリハビリ病院からクレームが入り、無理やり退院を強行。'07年12月、事故から半年が過ぎていた。

「ジェイ・ワークアウト」で得たことは、トレーニングの技術だけではなかった。トイレでの車椅子から便座への移り方、車椅子から車の運転席へ移り、さらに車椅子を車の中に入れる作業のコツも教わった。

症状的には私より重い人がひょいひょいとやってみせるんですねその人に教えてもらって5分くらいでできるようになったそれからは、手動装置を操って自分で運転して、トレーニングにも1人で通えるようになりました

 年に1回、毎年10月には「プロジェクト・ウォーク」のイベントに参加するため、ジムの仲間数人が渡米した。君江さんと克明さんも2回、参加している。

 淳さんは利用者とのコミュニケーションも大事にし、よく飲みにも行った。

それもバリアフリーの店なんかじゃなくて、段差があったり、トイレも入れないようなところそれでも淳さんは“全然、大丈夫だよ。段差があったら僕が担ぐし、壁があったら壊すし”と、笑顔で言うんです“行けないところなんてないですよ”と、私にいつも言ってくれました