'87年、55歳の樋口さんは全国で講演会も多数こなすようになっていた
'87年、55歳の樋口さんは全国で講演会も多数こなすようになっていた
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乳がんで家族共倒れの危機

 評論家として頭角を現した40代初めに、2度目の結婚。約30年の人生後半をともにした。事実婚で、相手は共同通信に長年勤務した後、いくつかの大学の教授を務めたジャーナリストだ。

 樋口さんが建てた家で同居を始めたとき、娘は中学3年生になっていた。

「彼の領域を作って、若干の家賃を払ってもらい独立性を保ちました。娘は思春期だったからうれしくなかったと思いますよ。でも、私には私の生き方があると思うから、決して引け目には感じませんでしたね」

 夫は東大の新聞研究所の先輩で、教えてもらうことが多かったそうだ。

「褒め上手でしたね。“この原稿は実によく考えて書いてある”とか、折に触れて褒めてくれました。私が絶対にかなわないなと思ったのは、いい先生であるということ。学生をすごくかわいがってよく育てました。彼が病に倒れると卒業生や教え子たちが見舞いに来てくれて、枕元が常ににぎやかでした」

 66歳のときに夫は重度の脳梗塞で寝たきりになり、3年3か月の闘病後、'99年に69歳で亡くなった。話すことはできなかったが、まばたきと右手親指を立てて意思表示ができた。

 不運はそれだけではない。夫が入院中に、今度は樋口さんが乳がんになった。風呂上がりに身体を乾かしていて、しこりを見つけたのだ。

 幸い、樋口さんのがんは転移しないタイプで、部分切除をすれば大丈夫だと医師に言われた。

「1週間入院してくる。必ず生きて帰ってくるから心配しないで」

 黙って行くと逆に心配すると思い、寝たきりの夫にそう伝えると、涙ぐんでうなずいたという。

「一時的とはいえ、文字どおり家族共倒れですよ。彼のことは私の友人や卒業生の中に頼める人がいたからいいけど、これからの介護は大変な人手不足の中でやらなければならない。ちょうど介護保険の論争をしていたころで、介護離職だけはしなくてすむようにしなければと改めて思いましたね」

 手術後、放射線治療で通院しているとき、同時期に乳がんの手術を受けた60代の女性が亡くなったと聞いた。姑の介護に追われて手遅れになったと知り、「介護保険ができていれば死ななくてすんだのに……」と心が痛んだ。その悔しさが、さらに背中を押してくれたそうだ。

「私は大きな病気をするたびに、なんだか天から勇気づけられるというか(笑)。すぐへこたれそうになるけれど、この人のためにもうちょっとがんばろうと思う人に出会うんですよ」