働くひとり親の過酷な介護体験

 ライフワークとなった女性問題に関わりを持ち始めたのは、学研で編集者をしていたときだ。'62年に新聞で『婦人問題懇話会』という民間の研究団体設立の記事を読み、自分から足を運んだ。

筆まめという人がいますが、私は足まめです。興味を持って行ってみたら、労働省(現・厚生労働省)や都庁の女性問題の担当者など、大勢の先輩女性がいて、私にとっては大学院みたいな場所でした。

 本を出版しようという話になって私も書き手の1人に選ばれて。まだ珍しかった共働き夫婦の家事労働分担について夫たちに連続インタビューしたら、NHKがラジオ番組で取り上げてくれたんです。初めて出演したときは手も声も震えましたよ。それが私の評論家デビューです」

 やがてキヤノンを辞めて評論家として独立した。

 '83年には自らが中心になり『高齢社会をよくする女性の会』を立ち上げた。その裏には母を看取るまで、1年8か月続いた過酷な介護体験があった。

 母は腎臓の病気があり、徐々に抑うつ状態に。夜中に起きて変なことを口走ったり幻覚を見たりもした。

小学校高学年に成長した娘と。シングルマザーとなり日夜働き、評論家としての活動も本格化
すべての写真を見る

 かつて樋口さんが夫を亡くして働き詰めだったとき、娘の面倒を見てくれたのは母だ。そんな負い目がどこかにあったのかと聞くと、樋口さんは即答した。

「いやあ、母がいなかったら今日の私はありませんよ。ハッキリ言って、私は母の人生後半を食いつぶしたと思っています。昔の人だから一切、文句も言わずに娘をかわいがってくれましたよ。でも、もうちょっとやりたいこともあっただろうにと……」

 母が亡くなったのは'75年。まだ老人医療が確立される前で、入院先を見つけるのも大変だった。

「働くひとり親が病人を抱えたらどんなことになるか、よくわかりました。そのころから日本中のいろいろな地域に講演に行くと、介護のために仕事を辞めざるをえなかったお嫁さんたちの悲鳴が聞こえてくるようになったんです。まだ介護という言葉は一般的でなく、看病とか世話をすると言っていましたが」

 同会には多いときで1500人以上の個人会員がいた。介護保険法をめぐって論争が続いていた'90年代後半は、イベントを開くたびに入会希望者が押し寄せた。介護に携わる専門職のほか、自分や親の老後を心配する主婦も多かった。

 事務局長の新井倭久子さん(81)は長年にわたって間近で見てきた樋口さんの素顔をこう話す。

設立当初、約30人いる理事の中には先輩もおられたそうですが、まだ50歳だった樋口恵子が代表になって、その後、ずーっとこの会を引っ張っています。もう、ブルドーザーといおうか(笑)、大黒柱といおうか。

 樋口は自分の思っていることはハッキリと主張しますが、異論に耳を傾け、相手を立てるところがあります。長所を生かす。運動は1人ではできないことをよく知っていますね。だから、樋口に多少無理を言われても、みんなめげない(笑)。この会がこんなに長続きしたのは、樋口恵子が代表だからだと思います」

 '05年にNPO法人の認証を受けた。かつて40~50代が主力だった会員も、今は65歳~75歳が中心だ。高齢になり辞める人もいて会員数は半減したが、活動は精力的に続けている。

 3年前、高齢者の薬の飲みすぎが問題視されたときは、同会でも会員の協力を得て服薬の実態調査を開始。5000人分以上のデータを集めて厚生労働省に届けた。コロナ禍で高齢者のICT(情報通信技術)弱者ぶりが報じられると、実態調査を始めた。