移動販売のバイトで才能開花!

 山崎さんが移動販売の仕事に目覚めたのは、求人誌の『焼きいも屋さん募集』を見たことに始まる。

「ヤンキーは結婚が早いから、一緒に遊んでた仲間は子どもができて落ち着いちゃって。もう20代だったんで、私もそろそろ身の振り方を考えようと」

 とはいえ、学歴がないので就職も難しい。タイムカードのある仕事も嫌だった。

それで、焼きいも屋なら好きな時間に働けるっていうんで、これ最高! ってすぐに決めました

 1~2日の研修を受け、遊んでいて知り合った女性を相棒に、さっそく実践に移った。

元締めから軽トラを貸りて、いもを焼いて、あとは『焼きいも~』の音声を流しながら基本的にゆっくり走るだけ。団地のそばとか夜遅くなら繁華街を回るんです。そうすると、さらっとやっても1日2万~3万になりました

 焼きいも屋を数か月続けたあとは、くだものの移動販売に鞍替えした。

「くだものは焼きいもより売れたけど、間に的屋さんが入ってて半分以上、売り上げを抜かれちゃう。だったら自分で商売やろうと、中古で軽トラを買って桃とかスイカを一種類だけ仕入れて売るようにしたんです」

 新宿の歌舞伎町や上野のアメ横を拠点に、夜の街で商売はそこそこ繁盛した。

 ところが、じきに仕入れの金が底をつく。

遊ぶために働いてたようなものだから。仕事が終わったら、新宿や六本木でパーッと飲んで、稼いだ分だけ使っちゃう。気づいたら、仕入れのお金にも手をつけて、すっからかんになっていました

 住所不定で友達の家を転々とし、その日暮らしの日々。人生設計の仕方など、誰も教えてくれなかった。

 それでも、やんちゃの限りを尽くした元ヤンキー。ちょっとのことではくじけない。

お金がないなら、仕入れがただのものを売ればいいやって。知り合いで鈴虫を山ほど飼ってるおじさんがいたんで、ただでもらって商売にしてみたんです

 ピンクの虫かごを買い、拾った小枝で見栄えをよくし、ひとかご3000円。

 意外にも、これが売れた。

鈴虫って夜になるといい音色で鳴くんです。それにつられて、酔っ払いのおじさんや流しの演歌歌手が、お土産に買っていってくれてね。2500円にまけることもあったけど、それでも経費は安いかご代だけなので、かなりもうかりました

 その奮闘ぶりを、横で見ていた、相棒の石原千絵さん(仮名・52)が振り返る。

山崎は、安易に商売を始めるけど、とにかくアイデアが面白いんです。軽トラをパッと買って、商売になる場所を見つける行動力もある。人と壁を作らないから知り合いも増えて、そこから商売が広がっていくんです。当時から夢追い人で、いつも言ってました。必ず一旗揚げて社長になる! って

 その宣言どおり、大きなチャンスをつかんだのは、20代半ばを過ぎたころ。

 スニーカーの販売を手がけたことに始まる。