南相馬市では「窓を開けないでください」と

 筆者が駒場さんと出会ったのは、震災から2週間経ったとき。相馬市の避難所のひとつ『総合福祉センター・はまなす館』だった。

「磯部小学校に避難した後、『はまなす館』へバスで行きました。その後、南相馬市鹿島区の親類の家に避難したんです。でも、原発事故もあったため、広報車が“窓を開けないでください”とアナウンスしていて……そこでの生活も不安だったので、親類と会津地方に避難しました」

 東京電力・福島第一原発は、地震や津波によって全電源喪失となった。3月11日19時03分、原子力緊急事態宣言が発令された。14日までに、20キロ圏内に避難指示。15日までに20〜30キロは屋内退避指示となった。駒場さんの自宅があった相馬市磯部は約40キロで、避難区域ではない。駒場さん家族は自費で会津地方の旅館に泊まっていたが、いつまでも泊まっているわけにもいかず、相馬市の『はまなす館』に戻った。

'11年の被災直後に取材したときの駒場さん
'11年の被災直後に取材したときの駒場さん
【写真】'11年の被災直後、あどけない笑顔を見せる駒場さん

「仮設住宅ができるまで、気が気でなかったんです。仕切りもなく、プライベートもありませんでした」

 避難所では洗濯もなかなかできず、徒歩30分以上もかかるコインランドリーまで行っていた。しかし原発事故で、洗濯物を外に出せなくなった。

 その後、駒場さんが高校を卒業する際に取材で会ったとき、彼女は内部被曝の検査を受け「異常なし」の判定をもらったばかりだった。当時の彼女は不安を口にしつつも、こう語っていた。 

原発事故なんで仕方ないし、どうにでもなれって思いました。被ばくは防げないし、放射線は目に見えないし……。この数値は本当か? と疑うこともありました。南相馬の友達も、“最初だけ怖かったよね。今はどうでもいいや”って開き直っています。将来、子どもを生まないようにしようとは思わないですね。障害を持って産まれたとしても、自分の子どもには変わりがない」

上司からのハラスメントに苦しんだ日々

 高校卒業後、駒場さんは南相馬市内の企業に就職したが、3か月で退職。その後、別の会社に6年間勤めた。しかし、そこでハラスメントに遭ってしまい、精神的に追い詰められた。

「ある日、どうしても仕事に行く準備ができなくて……精神科で診断してもらって退職を選びました。辞めたくないのに、辞めるのはつらかったです」

 なぜ、この時期、上司はハラスメントをしていたのか。駒場さんなりにこう推測していた。

震災当初は、『震災バブル』と言われるくらい仕事が忙しかったようですが、私が就職したころは落ち着いていました。みんな新しい家を建てて、相馬市では復興が進みました。意識したことはないのですが、徐々に自分たちが“被災者”とは思わなくなっていったんだと思います。その会社はいろんな地域に営業所があったのですが、震災バブルが終わってからは、赤字になっていたようです。

 でも、ほかの地域の営業所から見れば、“まだ、震災バブルはあるはずだ”と思われていたようです。そのため、上から『もっと目標を高く』と言われていたのです。それで上司は頭を抱えていました。いちばん年下の私は、そのプレッシャーのはけ口になっていたのだと思います