創立は1955年。今年で立ち上げから66年を迎えた渡辺プロダクション。現在の芸能プロダクションという形を作った、いわゆる“元祖”だ。

「当時、日本の芸能界にはタレントのマネージャーという存在がほぼおらず、興行師が手引きした仕事にタレントが出演すると、手数料を引かれた分がタレントに支払われる仕組みでした。芸能プロの地位を向上させ、いち早く大卒を社員として雇用し、スーツを着せてマネージャーという役割を作った会社がナベプロなのです」(芸能誌ライター)

 創業者は渡辺晋(しん)さん。'27年、東京生まれ。早稲田大学に入学したが、日本銀行に勤めていた父親が失職。生活費を稼ぐため、ジャズミュージシャンとして活動を始めた。

「米軍クラブで演奏をすれば、最低でも月1万円は稼げた。公務員の初任給が5000円の時代でしたから、わりがよかったんです。しかし、ミュージシャンとして生活するには、収入は不安定だった。晋さんも音楽活動をする中で、この状況を変える必要があると考えたのでしょう。米軍基地で演奏をする中で培ったコネクションを基礎に、芸能プロを作ったのです」(同・芸能誌ライター)

“月給制”が話題になり所属希望者が殺到

 米軍クラブで通訳の仕事をしていた妻の美佐と会社を立ち上げ、歴史は動き始めた。

 ナベプロに所属していた『クレージーキャッツ』のメンバーだった犬塚弘が当時を明かす。

「晋さんが芸能プロをやってるってんで“所属させてくれ”って頼みに行ったんですよ。晋さんは“オウ! いいよ!!”とふたつ返事でね。毎日のように米軍基地やジャズ喫茶で演奏して忙しかった。給料は安かったけどね。妻に“これだけなの!?”と言われましたが、月給制なのはありがたかった」

 生活の最低保障を聞きつけた何組ものミュージシャンが所属させてほしいと言ってきた。それだけ当時としては、ミュージシャンにとって異例の待遇だった。ナベプロが成し遂げた偉業はこれだけではない。

「晋さんはテレビ番組をテレビ局と一緒に作る“ユニット制作方式”を初めて導入したのです。クレージーキャッツが出演したフジテレビ系の『おとなの漫画』やザ・ピーナッツが司会を務めた『ザ・ヒットパレード』が有名です」(芸能プロ関係者)

 さらには、こんなことも。

「レコード会社で行われていた原盤制作を自社で行ったのです。それまではレコード会社が強い力を持っていたため、所属歌手の曲がヒットしても、ささやかな歌唱印税が入るぐらいでした。人材派遣のように仕事を斡旋するだけだった芸能プロのビジネスモデルを、権利ビジネスへと転換したんですよ」(同・芸能プロ関係者)

 テレビ番組への出演を機に爆発的な人気を誇ったクレージーキャッツだが、あの“名曲”を作るキッカケを作ったのも渡辺晋さんだった。

植木等さんの口癖だった“スラスラスイスイ”という言葉を聞いた晋さんが、それを使って曲を作ろうと言い始めたのです。それが大ヒットした“スーダラ節”なんですよ」(前出・芸能誌ライター)

'79年のクレージーキャッツ。左から桜井センリさん、谷啓さん、安田伸さん、植木さん、犬塚弘、中央下はハナ肇さん
'79年のクレージーキャッツ。左から桜井センリさん、谷啓さん、安田伸さん、植木さん、犬塚弘、中央下はハナ肇さん

 前出の犬塚は、

「植木の実家はお寺なんですが、スーダラ節を父親に聴かせたら“これは哲学的で奥深い”と、たいそう感心されたそう。植木はこんな曲は歌いたくないと思っていたようですが、お父さんは“売れる”と断言したと、植木が話していました」