困窮している人を助けるエンジェル

 ところが2002年5月31日、宗次さんは驚きの行動に出る。

 当時、53歳。経営者として脂がのりきる年代だというのに、なんとこの日を限りに役員を引退してしまったのだ。

「後継社長(前出・浜島さん)がよかった、知らぬ間に育ってくれていた。それ以外ありません。(辞めることに)未練も執着もなかった」

 引退後、ある知人社長に“やり尽くしたんですね”と言われ、“ああ、そのとおりだな”と思ったという。

 飲食業を志す人をはじめ、功成り名を遂げた名士として、宗次さんに憧れる人は少なくない。だがその陰には、経営の座を未練なく捨てられるほど、働き詰めの日々があったのである。 

 まさに、“やり尽くした”がゆえの引退。いまは株式も手放し、NPO法人『イエロー・エンジェル』の活動に明け暮れているという。

取材当日、CoCo壱番屋にて好物のイカフライをトッピングしたカレーを注文。料理が運ばれてくると、まずお皿を触って温かさを確認していた
取材当日、CoCo壱番屋にて好物のイカフライをトッピングしたカレーを注文。料理が運ばれてくると、まずお皿を触って温かさを確認していた
【写真】ココイチ創業の原点である喫茶店『バッカス』店内の様子

 現在の宗次さんを、浜島会長は「現役時代と変わった」と話す。

やわらかくなったというか丸くなったというか、なんていい人なんだと(笑)。僕らが一緒に働いていたころの宗次徳二とは全然違う。現役時代はピリピリとして、人を寄せつけませんでしたから

 NPO法人の目的を、宗次さんは助けを求める人々の支援とともに、前出の宗次ホールを舞台にしたクラシック音楽の普及活動であると語っている。

(株式を)店頭公開してお金が入金された通帳を見たときに、“これは自分のお金じゃない。社会からの一時預かりとして社会に還元しよう”そう思った。それで、NPO活動を通して、いろいろなことに一生懸命な人、奨学金を求めている人、起業しようとしている人、困窮している人を助けるエンジェルになろうと思ったんです

 そんなエンジェルとしての活動のひとつが、著名演奏家への楽器の提供だ。

 楽器の選定を一任されているというヴァイオリン修復家の中澤宗幸さん(80)が言う。

特定の人に貸与というわけでなく、音楽を目指す人たちすべての人に、できる限り貸与してあげたいという姿勢です。音楽家にとって、料理人の包丁に当たるものが楽器。楽器が違うと音楽が違ってきます。宗次さんもそれがわかっていて、そんなやさしさからの行為だと思います

 日本が誇る名ヴァイオリニスト・神尾真由子、木嶋真優、辻彩奈などが使用するヴァイオリンも宗次さんからの貸与。ちなみに中澤さんによると、ヴァイオリンのお値段は「ピンからキリで、何十万から10数億円」だそうである。

 こうした楽器提供は、一流演奏家以外にも。

 宗次ホール1階の事務所奥には、愛知・岐阜・三重3県の中学高校の名前が記されたファイルがズラリと並ぶ。延べ1000校ほどの吹奏楽部に楽器を寄贈しているのだ。そのほか、東京都内の音楽大学にホールの寄贈も行っている。

 また、宗次ホール前には黄色い花が植えられたプランターが並んでいるが、花がら摘みやここの掃除も宗次さんの仕事。毎朝3時55分に起床、1日も欠かさず、2時間かけて清掃活動を行う。

現在も、ホール前の通りを朝から2時間かけて掃除するのが日課
現在も、ホール前の通りを朝から2時間かけて掃除するのが日課

 昼食には炊き込みご飯やカレーを作り、スタッフに振る舞うこともしばしばだ。

 個人で行っているというこんなエピソードを前出の作家、志賀内さんが明かす。

街でホームレスを見かけると、コンビニでおにぎりと温かい飲み物を買い、“大丈夫ですか?”と手渡すんです。袋の中に数千円入れてね。冬になるとマイナス10℃まで大丈夫という寝袋も、相当数配っています。ホームレスの人の名前までご存じですよ

 浜島会長が言う。

人を寄せつけなかった宗次徳二と今の宗次、どちらが本当の宗次と聞かれれば、おそらく後者じゃないですか? 現役時代は作っていたんじゃないでしょうか、やっぱり

 経営者としての現役は引退したが、クラシック音楽普及も人助けも、お金持ちの道楽では決してない。

 志賀内さんがこう続ける。

リタイア後の片手間どころか、フル回転の毎日ですよ。取材を含め、講演は断らないし、宗次ホールでの年間400回のコンサートでは毎回、“いらっしゃいませ”と迎え、演奏を聴いて“ありがとうございました”と送り出す。毎朝3時55分に起きて、掃除を2時間して、それからですよ。現役時代と変わらず、毎日バリバリと働いています

 宗次ホールの役割を、宗次さんはこんなふうに言う。

クラシックを広めたい。聴くとやさしい気持ちになるしね。年に1回か2回でもいいからクラシックを聴いてほしい。クラシックを愛好する人に悪い人は絶対いない。社会がやさしくなると思うんです

 10辛のカレーのごとくスパイシーだった前半生と、ライスのように、純粋な後半生。

 カレーと同じく人生も、何ともいえない味わいを醸し出すのは、その絶妙のハーモニー──。

取材・文/千羽ひとみ(せんば・ひとみ)
ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。著書に『ダイバーシティとマーケティング』『幸せ企業のひみつ』(共に共著)

《撮影/伊藤和幸》