結婚した途端、「うちの嫁」扱いに

 井田さんは2度の結婚を通して、2度とも改姓をしている。どちらも自分が望んだことではなかった。

 最初の結婚は19歳のとき。学生結婚だった。自分の氏名に愛着のあった彼女は、名字を変えたくないことを彼に伝えると「妻の名字に変えるのは恥ずかしい」と一蹴された。両方の実家でも「女性が変えるのが当然。あなたのほうがひと回りも下で長男の嫁なんだし」「結婚は家と家とのつながり」と説き伏せられ、誰ひとり井田さんに共感してくれる人はいなかった。

「当時、知識もなかったので“そんなものなのかな”と自分を納得させて、井田姓に改姓しました。でも改姓後は人知れず違和感がありました。出産のため入院したとき、病院で毎日、“井田さん”と呼ばれ続け、気分が沈んでいきましたね」

 そして結婚した途端、夫の家族から「うちの嫁」として扱われることにも驚いた。

「夫の父が突然、“うちの嫁には家紋入りの喪服を作る”と呉服店の人を連れて家にやってきたのです。“ありがたいけれど、好きな人と結婚しただけで井田家の嫁になったつもりはないので”と断っても、“あなたの意思は関係ない”と言われ、採寸するまで粘られました」

初婚のとき、義父に強制的に作らされた家紋入りの喪服は葬式の際に着て、地域を練り歩いた
初婚のとき、義父に強制的に作らされた家紋入りの喪服は葬式の際に着て、地域を練り歩いた
【写真】嫁入り後、義父に強制的に作らされた“家紋入りの喪服”を着る井田さん

 親戚が集まる行事では、女性がお酌や給仕をするのが当たり前。井田さんが酔った男性の親族に身体を触られたり、セクハラ発言を受けたりしても、周囲は笑うだけだった。

「まるで生まれた“家”から彼の“家”に譲渡された、どう扱ってもいい人間のような扱いをされたことがとてもショックでした」

 改姓をしたから「うちの家に入った嫁」という意識になり、所有物のような扱いを受けるのだろうか? そう思わずにはいられなかった。

 大学卒業後、新卒で入った会社でも改姓後の「井田」を名乗ることにした。

「大学卒業時は就職氷河期。会社に“旧姓を使用したい”とは言い出せませんでした。旧姓通称の使用は企業にとっても面倒ですからね。ただでさえ入社時にはすでに子持ちだったので、“面倒なことを頼みにくる新卒”は採用されないのではと思ったんです」

 大学卒業時、夫は「家庭に入り俺を支えて」と言った。就職を希望した井田さんに「仕事は妻が勝手に始めた趣味だから」という理屈で、「仕事に必要な保育料は自分で負担するように」と突き放した。そのうち食費や光熱費などの生活費、子どもの学費さえ分担を断られるようになった。「今なら経済DVですよね」と井田さんは言う。

19歳で学生結婚。ほどなくして長男を出産したが、入院した病院では1週間、井田姓で呼ばれ続け、違和感がぬぐえなかったという
19歳で学生結婚。ほどなくして長男を出産したが、入院した病院では1週間、井田姓で呼ばれ続け、違和感がぬぐえなかったという

 そうした事情も遠因となり38歳で離婚。親権は井田さんが持ったのだが、「自分の姓は変えたくない」という子どもたちの希望もあり、旧姓には戻さず、「婚氏続称」を選んだ。日本の法律は、母の戸籍に入れる子は同じ姓でなければならないからだ。

「私が味わったような望まない改姓の苦痛は、子どもたちに味わわせたくないし、いい影響を与えないでしょうからね。私としても、20年近く井田姓でキャリアを積んできて、いま生まれ持った姓に戻しても不都合なだけだと考えて、そうしたんです」

再婚での改姓で苦痛を知った

 そして'17年、現在の夫と再婚する。当初、結婚届を出すつもりはなく、事実婚状態だったのだが、夫が手術を受けることになったとき、思ってもみない出来事が起きた。

「彼が腫瘍の摘出手術を受けることになり、合意書にサインをしようとしたら、できなかったんです。病院側に“奥様でない方には署名はしていただけない。本当のご家族を呼んでください”と言われ、妻として扱ってもらえないのかとショックでした」

 再婚に伴い、また改姓しなくてはならないのか、それは嫌だな、と思った。しかし、再婚しても「井田」姓のままでいるということは、今の夫に望まない改姓をさせたうえに元夫の姓を名乗らせることになってしまう。

「さすがにそれは、あまりにも酷だと思って、しかたなく2度目の改姓をしました」

 子どもたちといた戸籍を抜けて、井田さんは夫との戸籍へ。つまり現在、井田さんと夫の戸籍、子どもたちの戸籍と、1つの世帯に2つの戸籍がある状態になっている。仕事では引き続き通称として「井田」姓を使用している。

 この再婚で、彼女は初めて社会人が改姓する苦痛を知ったという。

「名義変更を繰り返すたびに、自分が名乗ってきた名前が消されて、上書きされていく苦痛を味わいました。改姓すると“あなたの名字がなくなりました”というお知らせが役所から届くんですね。印鑑証明を取り直しなさいとか。“私はいなくなって別人となって生まれ変わった。社会的な死を迎えたんだ”というのをすごく感じました

19歳で学生結婚。ほどなくして長男を出産したが、入院した病院では1週間、井田姓で呼ばれ続け、違和感がぬぐえなかったという
19歳で学生結婚。ほどなくして長男を出産したが、入院した病院では1週間、井田姓で呼ばれ続け、違和感がぬぐえなかったという

 膨大な数の名義変更にも悩まされた。銀行口座やクレジットカード、パスポート等々。特に、目前に迫った海外出張のためパスポートの名義を至急変更しなくてはならなかったときは大変だった。名義を変えると、出張先でのカンファレンス(会議)の登録名ではなくなってしまい、会場へ入れない可能性がある。そこで、パスポートに旧姓を併記するためにパスポートセンターに3度行き、通常の書類に加え8種類の書類を提出しなくてはならなかった。

 また、生活費などの引き落としに使っていたクレジットカードの名義変更をしようとしたら、カード番号も変えざるをえず、すべてのカードの決済設定をやり直すことに。これが2年間も続いた。

 夫婦同姓が強制されているのは世界で日本だけと知ったのは、そんな果てしない名義変更に追われていたころ。

「カナダに住む姉が別姓結婚をして、国籍も苗字も元のままで仲の良い家庭を築いているんです。姉に“なぜそんなことをやらなきゃいけないの?”と聞かれ、“今の日本の制度じゃ許されないらしい”と答えたのをよく覚えています」

 井田さんの姉が住むカナダのケベック州は、ジェンダー平等や「自分のルーツを大切にする」という方針から、婚姻による改姓を禁じている。つまり100%、夫婦別姓の地域だった。

「でも、姉は“夫婦別姓で困ったことは1つもない”と言うんです。目から鱗がボロボロ落ちました。日本の状況を変えなくては──、そう思うようになりツイッターでつぶやき始めたら、仲間がどんどんできていきました」

 そうして立ち上げた陳情アクションの正式メンバーは現在、270名に達している。