働き詰めだった母の背中

 6人きょうだいという大家族の5番目に生まれた。幼いころの晶さんは「きょうだいの中でも明るく活発な女の子だった」と母・能里子さんは言う。

「小さいときから、出されたご飯をさっさと食べて、次のことをする。暇にしているところを見たことがない。なんでも自分でやってしまう手のかからない子どもでしたね」

 晶さんが自分のことはなんでも自分でするように育ったのは、ひとつ上の姉と5つ下の弟が先天性脳性麻痺で生まれてきたことも理由のひとつかもしれない。

「父は仕事が長続きしなくて……なんというか、ヒッピーみたいな人だったんです(笑)。履歴書を書かせたら、100種類以上の職業を転々としているんじゃないかな。そんな父に代わって、朝から夜中まで働き詰めの母の背中を見て、育ちました。

 母は朝、新聞を配り終えるとハンディキャップのある姉と弟の送り迎え。昼間に山のような洗濯、食事の準備といった家事をすませると夜中は飲食店の皿洗いなどのアルバイト。

 寝る間を惜しんで働く母のことが心配で、小さいころ新聞専売所の電信柱の陰からこっそり母を見ていました。

 今から思えば、そんな時間があったら、家事とか手伝えばよかったな」

 地元・葉山の中学を卒業後、神奈川県立三崎水産高校(現・県立海洋科学高校)に進学。

 卒業後は海の仕事がしたいと思い、幼なじみの親が経営するダイビングショップに非常勤で雇ってもらった。

 ある日、ダイビングショップの仕事で、定置網を潜って修理したことがきっかけで、初めて漁師の船に乗った。

「網を引き揚げると、魚だけでなくハンマーヘッドシャークやイルカ、カメなどいろんな海の生き物がかかっていて、改めて海の豊かさに驚きました。何回か漁を体験させてもらううちに『こんな仕事ができたら幸せだ』。『漁師になりたい』という思いが芽生えてきました」

 思いの丈を社長に打ち明けたが、「ムリ」の一点張り。やはり女に漁師はムリなのかと一度は諦めた。

 ところが、運命の出会いが再び訪れる。ダイビングショップを辞め、母校の水産高校で、マリンスポーツを教える非常勤の実習助手を務めるかたわら、晶さんは鎌倉の女性漁師・奥田ゆうこさんと知り合い、半年ほど仕事を手伝うことになる。

「3人の子どもを持つシングルマザーのゆうこさんは、どんなに大変でも常に笑顔で頑張っていた。そんな姿に惹かれ、私も彼女のような漁師になりたいと本気で考えるようになりました」

 晶さんが懸命に手伝う姿を見て、「鎌倉で漁師をやらないか」と誘ってくれたゆうこさん。

 しかし、「漁師をやるなら、生まれ育った葉山でやりたい」

 との思いが晶さんの胸に込み上げ、真名瀬港へ。四郎さんのもとで修業の末に漁師として独立したのだ。