父が語った「可能性にあふれた日本」

 厚生労働省によると「中国残留孤児」の定義は、1945年8月9日のソ連軍の対日参戦時、旧満州国で肉親と離別し、中国の養父母に育てられるなどした身元不明の12歳以下の日本人児童を指す。

 中国残留孤児の第一次訪日調査が実施されたのは1981年3月で、終戦からすでに36年の月日が流れていた。肉親捜しのために日本へやってきた孤児47人のうち、身元が判明したのは30人。以来、1999年まで毎年のように行われた調査で2116人が来日し、このうち身元が判明したのは673人とわずか約32%だった。

国交正常化を受け、政府は中国残留孤児の面接調査を開始。肉親を捜す人々が詰めかけた
国交正常化を受け、政府は中国残留孤児の面接調査を開始。肉親を捜す人々が詰めかけた
【写真】両親・きょうだいと笑顔で記念撮影をする高校時代の新津さん

 翌2000年以降は、高齢化した孤児への身体的・精神的負担を考慮し、中国現地での孤児認定に切り替えられた。

 厚労省によれば、今年5月末現在、残留孤児の総数は2818人(うち永住帰国者は2557人)で、このうち身元判明児は半数以下の1284人にとどまっており、依然として多くの身元がわかっていない。

 新津さんの父が調査のために来日したのは、1980年代の初めごろ。10日ほどの滞在だったが、両親を捜し出せないまま中国へ帰国した。その直後に開かれた家族会議で、日本について生き生きと語る父の様子を、新津さんは今もはっきりと覚えている。

「お父さんは興奮して朝まで話していました。発展した日本の街の様子を説明し、日本は可能性に満ちあふれていると。それで“みんなのために日本に帰ろう”という考えになっていました。お母さんも悩んだと思いますが、従うしかなかった。中国ではそれが当たり前だったのです」

 父から手渡された土産物の洋服はピンクや紫、青などいずれも鮮やかな色彩で、カーキ色の人民服しか着たことがなかった新津さんにとっては「中国には絶対にない色の服だ」と驚きを隠せなかった。船便で届いた自転車も、黒一色に統一された中国製とは異なる斬新なデザイン。瀋陽市から一歩も外に出た経験がなかった新津さんにとって、それは先進国を肌で感じた瞬間だった。

 勉強嫌いの新津さんは中学校をすぐにやめ、親戚のつてで工事現場で働く。その間に父は、身元保証人の確保など訪日のための手続きをすませ、一家5人はいよいよ日本へ向けて出発した。

 瀋陽から汽車で8時間かけて大連へ。そこから飛行機で飛び立った。

 新津さんは当時17歳。成田空港に到着した若者を待ち構えていたのは、見る物すべてが初めての、刺激的な世界だった。当時の興奮を思い出すかのように、新津さんは目を輝かせて話した。

「それまで白人や黒人を見たことがなかったんです。だからこの人たちはどこの国の人だろう?と思いました。日本の食べ物はきれいで、どんな味なんだろう、どうやって作るんだろう……」

 好奇心を抑えられず、次から次へと疑問が湧いた。だが、そんな夢のような感慨に浸るのもつかの間、すぐに現実に引き戻された。