野菜くずやパンの耳でしのいだ日々

 新津さん一家が日本に到着したのは1987年。中曽根内閣の時代で、地価の高騰により東京銀座の土地が1坪1億円を突破するなど、バブル景気に沸いていた。

 外国人を取り巻く環境としては、フィリピンパブで働く若い女性の来日が相次ぎ、日系ブラジル人をはじめとする南米系も含めた「ニューカマー」と呼ばれる外国人が増え始めていた。

 まだ日本が勢いづいていた昭和末期に、新津さん一家は質素な生活を余儀なくされる。

 来日してからしばらく、台湾人が経営する民宿に泊まるなどした後、品川区にある2DKの都営住宅に移り住む。その手配は、父が訪日したときに出会った帰国者支援団体の幹部が手伝ってくれた。

 中国残留邦人が日本政府の国費で帰国する場合、帰国者定着促進センターで日本語教育などを受け、日本での生活に向けた準備期間が設けられている。ところが、国費帰国は順番待ちだったため、新津さん一家は私費で帰国した。センター利用の機会を失い、おまけに一家は誰ひとりとして日本語ができないため、右も左もわからないまま、いきなり日本社会に放り込まれた。

 間もなく、所持金が底を尽いた。生活保護を受ける選択肢もあったが、父は「まだ40代なのにどうして必要なのか」と断ったという。新津さんが回想する。

「当時の日本は卵10個が150円ほど。スーパーに行けば、キャベツや白菜の野菜くずはタダでもらえる。1袋30円のパンの耳もかじっていました。それだけ食べればいいじゃん。とにかく生きることしか考えていませんでした」

来日後、1年遅れで高校へ入学した新津さん(前列中央)。両親、きょうだいと一緒に撮った記念の1枚
来日後、1年遅れで高校へ入学した新津さん(前列中央)。両親、きょうだいと一緒に撮った記念の1枚
【写真】両親・きょうだいと笑顔で記念撮影をする高校時代の新津さん

 仕事もすぐに探した。漢字は理解できるので、電信柱などに貼りつけてある「求人募集」のポスターをはがし、一家で清掃のアルバイトを見つけた。日本で初めて手にした日給は、8500円だった。

「現金払いだからよかったんです。1日働けば、次の日のご飯が食べられました」

 日本語や中学の勉強は、テレビを見たり、中国人ボランティアに教えてもらったりしながら少しずつ覚えた。そんな生活が1年ほど続き、通常より1年遅れで、都立高校に帰国子女枠で入学。卒業後は、ヘッドホンを製造する音響機器の会社に就職した。

 3年ほどが経過したころ、やはり身体を使った仕事がしたいと思い立ち、偶然目にした職業訓練校の生徒募集のポスターに飛びついた。ビル衛生管理科があったためだ。ところが入校対象者は「45歳以上」。20歳以上も若かった新津さんはそれでも入校を志願し、帰国子女枠でねじ込んでもらった。

職業訓練校時代の新津さん(最後列のいちばん左)。20歳も年の離れた生徒たちに交じって清掃技術を学んだ
職業訓練校時代の新津さん(最後列のいちばん左)。20歳も年の離れた生徒たちに交じって清掃技術を学んだ

 そして25歳のときに、晴れて羽田空港の清掃員になる。その際も「うちの清掃会社は男性しか採らない」とやんわり断られたのだが、新津さんは引かなかった。その熱意を買ってくれたのが、彼女の人生が変わるきっかけをつくった上司の鈴木優さんだった。